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女子大生純文学作家は異世界に転生したくない!?
¥880
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サークル名:水と心 作家:水野心 イラスト:猫城寺ユーリ 高橋ひまりは、十八歳の時、自らの青春を小説にし、賞を受賞。大学にも合格し、春に東京に上京。学生生活と文壇デビューを期待した。その幸せは約束されていたはずだった。しかし、突然発生したCOVID-19。世界はパニックに陥り、ひまりは 大学二年の春からずっとリモート授業となり、味気ないぼっちの毎日。勉学による精錬も恋物語(ロマンス)も皆無だった。ほんとうに。 ひまりの心は自然と文学に向き、数多く小説を書いた。それを自分に賞を与えた出版社に持ち込んだ。そしてこう言われる。 「もう純文学の小説は売れない、COVID-19も落ち着いた今、人は出会いを求めている!、マッチングアプリでたくさんの人とデートして体験記を書く!、これで決まりだよ!、『文科系エロ』ってやつだね」 文学まで終わったなんて! その時、ひまりに声をかける人物が現れた。理工学部の准教授・十郷だった。 「君、異世界に行ってみないか?」
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家族がみんな隠しごとをしている
¥550
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サークル:文章・創作のサークル ライトノベル短編集 森野ひよこ 家族がみんな隠しごとをしている マノ・イチカ はじまりの村の防具屋さん 野原 謎なんぞ、なぞ ゆにお 野良猫男子。 望月深景 ノスタルジックに恋をして 小鳥鳥子 甘々なアイスコーヒーが良いに決まっている * 「家族がみんな隠しごとをしている」 もう夕方だっていうのに、ギラギラと熱い日差しが全身に突き刺さるのがわかる。フルートの黒いケースは思いっきり熱を吸収している。大きく息を吐いて気合を入れると、沈みゆく太陽に向かって、毅然として歩を進めた。 やがて家が見えると、越えそうになる我慢の限界を必死で抑えて、玄関へ駆け込む。 「あー、暑い!」 ひんやりとした空気が室内から流れてきて、私は思わず靴も脱がずに廊下に倒れこんだ。 冷たい床の感触が気持ちいい。外の炎天下から一転、至福のひとときだ。起き上がって部屋で着替えるなんてもってのほか。いっそこのまま床になりたい。 「もー、なぎさ! 帰ってきたのに顔出さないと思ったら。何してるのよ、そんなとこで。みっともないわねぇ、誰か来たらどうすんのよ」 見なくてもわかる。母さんが廊下で仁王立ちしている。しかも、年甲斐もなくピンクのうさぎのエプロンをしていると思う。おそらく。でもそんなことを確かめるために顔を上げる労力が惜しい。 「お願い、もうちょっとだけ。今、私、誰よりもこの床を愛してる」 「はいはい。冷たいカルピスあるから、はやくその沸騰した脳みそ冷やしなさい」 呆れた声で言い捨てると、母さんがキッチンに戻っていく。 床が私の熱を吸い取って、ぬるくなってきた。私は大の字に突っ伏したまま、体ひとつ分右にずれる。ひんやりと冷たい感覚が戻ってきて、心地よさに吐息が漏れる。 突然、インターホンが鳴った。 私は飛び起きると、何事もなかったかのように制服を整えてローファーを脱ぐ。 「こんちはー。宅急便ですー」 玄関の扉越しに、威勢のいい声が聞こえる。やはりうさぎのエプロンをしていた母さんは、印鑑を片手にキッチンから小走りで出てきた。私を一瞥すると、しっしっと追いやるそぶりをする。サンダルをひっかけ玄関を開ける母さんと入れ違うように、私はキッチンへ入った。 ダイニングのテーブルには、ペットボトル顔負けの容量のグラスに氷入りのカルピスが入っていた。 さすがわれらが母親。グチグチいいながらも、暑い中部活から帰ってきた愛娘のために、冷たいカルピスを作ってくれている。 私はその母の愛情で、沸騰した脳みそを冷やすべく、のどを鳴らして一気飲みする。冷たいカルピスが、のどから胃へと伝っていくのがわかった。 「んー、最っ高!」 風呂上りにいそいそと缶ビールを開ける父さんの気持ちがわかる。あれは、炎天下のあとの床であり、部活帰りのカルピスなのだ。 「あー、ちょっと、なぎさ! 何で私のカルピス勝手に飲んでるのよ」 発泡スチロールの箱をダイニングテーブルに置きながら、母さんが文句を言う。 「え、これ私に入れてくれたんじゃないの?」 「当たり前じゃない。カルピスぐらい自分で入れなさいよ」 私は口を尖らせながら、クールダウンした脳みそを用いて自己弁護を開始する。 「だって、さっきカルピスあるって言ったじゃん」 「あるわよ。冷蔵庫に。だから勝手に出して作って飲んでよ」 「この真夏日に部活でへとへとになって帰ってきたかわいい愛娘に、カルピスくらい作ってくれてもいいじゃない」 「へとへとでもコップにカルピスと水入れて混ぜるくらいできるでしょ」 「言っとくけど、うちの部はけっこうハードなんだからね。狭い音楽室にぎゅうぎゅうに詰め込まれてみっちり合奏2時間コース。一度代わってみてよ」 「嫌よ。だいたいもう引退なのに、なぎさが勝手に行ってるだけじゃない。あんな壷から蛇が出てきそうな笛の音じゃ、かえって迷惑なんじゃない?」 「失礼! ワタクシ、こうみえてもソロパートありますし!」 「あーもう、はいはい。わかったから着替えておいでよ。じゃないとあんただけヌキにするよ」 突然毒気を抜かれて、私は大きく目を瞬いた。 母さんはさっき届いた発泡スチロールのふたをふさいでいるセロテープをぺりぺりと剥がしている。 「何何? 何が届いたの?」 ふたが開くのも待ちきれず、私は身を乗り出して母さんに問う。 「ふっふっふ。翠さんがお中元にってお肉を送ってくれたのよ。それっ!」 母さんが勢いよくふたを開けると、中から保冷剤に埋もれた鮮やかな霜降りのロース肉が見えた。 「おおー」 思わず二人の声がハモる。 分厚くスライスされた五枚のお肉が、ひとつのトレイに入ってパックされている。それをダイニングテーブルの真ん中に飾り、おおーとか、わあーとか言いながら、しばし二人で愛でた。 ありがとう翠おばさん。大好き。 「付け合せはニンジンでいいかな。あ、ブロッコリーがあった」 「着替えてくるわ」 さっそく冷蔵庫を開けながら悩みだす母さんの背中に声をかけ、私は足取り軽く階段を駆け上がった。急いで楽な服装に着替えて降りてくると、母さんは鼻歌まじりに野菜を下ゆでしていた。 「あ、ねえ、なぎさ。確か冷凍室にラードあったよね」 「ラジャ!」 私は冷蔵庫に駆け寄り、勢いよく扉を開く。すると、扉のポケットに入れていた保冷剤がガラガラと落ちてくる。 うちの冷蔵庫は古くて、冷凍室が一番上の扉で、しかも開けた瞬間ゴーゴー言い出す。必死で冷やしている音を聞いていると、なんだかはやく閉めないと悪い気がする。それでつい目をつぶってしまっているけれど、さすがに今日という今日は我慢できない。 私は保冷剤がクリンヒットした足の甲の痛みにじっと耐えながら、心の中で固く決意する。 「いっつも思うんだけどさ、うち冷凍室詰めすぎだよ。絶対要らないものあるって。少なくともこんなに保冷剤は要らない」 私はそう吐き捨てながら、ポケットに入っている保冷剤を片っ端から取り出して、カップボードに並べる。 「えー、使うことあるじゃん。大きいのと小さいの何個かずつ残しといてよ」 「はいはーい。後で戻しておきます」 不満タラタラな母さんの抗議を、やる気のない声で流す。 アイスクリーム、鮭の切り身、開きアジの干物、豚ばら肉、鶏肉あたりは許す。 「このコップ冷やしてるの誰?」 「あー、父さんでしょ。風呂上りのビール用」 「缶から直接飲んでるじゃん」 「忘れてるんじゃない?」 「はい、ダメー」 私は語尾を下げながら、グラスを流し台へ下ろす。 「次、この化粧水」 サラダ用のキャベツを千切りしていた手を止めて、母さんが訝しげに目を細めて私の持っている瓶を見つめる。 「みかのでしょ、多分」 「う。じゃあ入れときます」 姉さんのものを勝手にいじったら、後が怖い。裏表のないさばさばした人で、脅し文句までが有言実行の徹底ぶりだ。 あったところに向きも元通りに置いておくと、さらに奥へ進むことにする。と思ったら行き止まりだ。巨大な霜の塊がある。 「母さん、この霜なんとかならないの?」 「それねぇ。一度冷蔵庫のスイッチを切ればいいんだけど、こう暑い日が続いてるとやる気になんないよね」 たしかにこの暑い時期に冷蔵庫のスイッチを切ったらいろんなものが傷みそうだ。でもこいつが冷凍室の三分の一くらいを占めている。 私は果物ナイフを取り出して、力任せに掘る。しかし手が届きにくい上に硬すぎで全然削れている気配がない。椅子を冷蔵庫の前まで持ってくると、椅子に登って、冷凍室に頭を突っ込むようにして霜と対峙する。 ふと霜の下のほうに黒っぽいものを見つけた。回りの霜を削って取り出してみると、それは鍵だった。バイクとか車とか家とか、それくらいのサイズ。 「ねぇ、母さん。冷凍室に鍵が入ってるんだけど」 「なっ、はやく返しなさい!」 すぐ私の足元まで駆け寄って、顔面蒼白の母さんは私に手のひらを向けた。私は焦っているような母さんの顔をまじまじと見つめ、鍵を渡した。母さんは半ば奪うようにして鍵を握り締めたが、あれ? とつぶやき手の中の鍵を見つめている──。
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六月の花嫁
¥600
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サークル:文章・創作のサークル 作家:紫りえ Ni ふむふむともくもく 2020年。世界に蔓延したウィルスの影響により、 女性は結婚式を延期せざるを得なくなる──。 2019年。婚約し、男女が共に住むことへの碧き感情の花嫁の手記。 花嫁の日常の機微はいつしか世界中に蔓延したウィルスの下を書き記す。『六月の花嫁』 緊急事態宣言、2度目の緊急事態宣言、そして、春の物語の短編集。 ■ 2020/04/26 結婚式を延期にした日 当初、緊急事態宣言が延期になるかどうかを見届けてから決定するつもりでいた。それが私達の挙式のぴったり1ヶ月前だったし、第三者的な判断基準になると思った。 挙式までの準備期間としては既に2ヶ月前を切っていた。どんな式を挙げるのかによるけれど、この時期には手作りしたいものを進めたり、当日必要なものを購入したりする。前撮りもこの時期にする人が多い。人によってはエステに通う人もいるし、CD原盤を探したりとなにかと奔走する時期になる。 母にはアートフラワーブーケを作ってもらう予定で、そのブーケを前撮りに使って写真に残しておきたいと思っていた。 けれど、アートフラワーを売る大きなお店が休業になってしまった。オンライン販売はしているが、母は「ボリュームも色も見ながらでないと難しい」とオンラインのリスクの高さを懸念していた。 一方で、前撮りスタジオとも連絡がつかなかった。緊急事態宣言が解除されたとしたらその翌日が予約日だった。緊急事態宣言が出されるよりも前にたまたまその日に予約を入れてしまっていたのだが、お店自体もその日から再開予定となっていた。 緊急事態宣言の解除と継続、どちらにしてもスタジオが当日やるのかやらないのかわからなかった。予定通りやるとしたら、母のブーケはできていないから、そのブーケを使った撮影はできない。やらないとしても、いつスタジオが開くのかもわからない。未来に予約を入れたとしても、アートフラワーのお店の方もいつ開くかもわからない。 何も予定がたたなかった。そのことに気付いたのは仕事の合間の昼下がりだった。 友達にそのことについて愚痴をこぼした。旦那さんに言ったら、さくっと延期の話になるのが目に見えていたけど、それはまだ受け入れられなかった。でも、どうにもならないこともわかっていた。どういう返事が欲しいのかもわからなかった。ただ、もう当日どうこうだけではなく準備にまで支障をきたしていることにとても被害を受けた、という感覚だけが強く胸に残ってしまった。 ゲストの健康面や不安を考えて、というのは前提として頭にずっとあった。慶んでといってくれても、新郎新婦共に、自粛のこのご時世に普通に働く職なので尚のことだった。それでも皆がやってほしい、と言ってくれていたからつい、そこについてはみんな覚悟の上だから、とおざなりになっていた。結婚式の準備が忙しくなってくる時期だったから尚のこと、前提にありつつも横に置いていたように思う。 「完璧にやろうとしたら支障がありすぎる」 と友人からは返答があった。 あなたは他人を跳ね除けて理想を求める人、という言葉に聞こえてしまった。 「元々なら当たり前にできたことを、その中で何は死守して、何は譲ってもいいのかを考えるのは辛いね」 何かを捨てることが前提の彼女の優しい言葉は 昔流行った、ラストシーンにはベランダから転落する以外の選択肢がなくなるゲームのようだった。 そのあとも私の愚痴に「そうだよね」と繰り返して返事をくれた。もうそれ以上に言いようがなかったのだと思う。 帰る前に旦那さんに、絵文字だけを羅列した象形文字みたいなメッセージと共に、「詰んだ」と送った。文字に起こすには 未来の予定のために事前にこれをしてあれをしてと遡って話をするのが大変だった。結婚式はそういうものだ。当日に合わせて時期を決めてある程度機械的に動くのだ。 帰ってから一連の こういう準備の支障が出るのだという話をした。とにかくどこもかしこもお店がやっていないから、もし6月の挙式までにコロナが収束したとしても、準備のほうが全くできないということが伝わっていればいい。その時のわたしにはそれが1番の理由だった。周りのことを思うだけの余裕がなかった。 私にそれだけ、「周りを気にしないで自分の思うようにやっていい」と全力で伝えてくれた友人がいたからだった。 「どうしようか。延期するしかないかなあ」 まあそうだろうね、と言葉にまだ出したくなかった。代わりに今までなぜか出てこなかった涙が溢れてきた。 普段以上に手を洗ってうがいをしていた私を狭い洗面所で、旦那さんは何も言わずに抱きしめてくれた。何が悲しいのかわかるようなわからないような。延期は視野に入れていたけど、まだそう思えていなかった。本当に延期を決定することにやっとやっと向き合った結果がこの涙なのだ、と思った。 肩に顔をくっつけて、黙って泣いていた。
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ソナチネ
¥600
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サークル:ソナチネ 作家:峯本つづき 8つの短編集。83ページ。 B6サイズ 目次 ・雪解け ・たんぽぽ幻想曲 ・雨の日の子守歌 ・ひぐらしのカノン ・哀歌 ・無題 ・風のロンド ・空色のピアノ 最後の2作は童話となります。 それぞれ3000字程度のごく短い短編で、季節を織り込んで書かれております。風の匂いや蝉の声、雨の音を感じながら小さな世界に浸っていただければと思います。小学校の高学年から読んでいただける作品です。 「ソナチネ」にはポストカードがセットとなっております。 ※申し訳ございません。ポストカードの選択はできません。
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夕陽のかたち
¥300
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サークル:ソナチネ 作家:石丸明・峯本つづき 28ページ B6サイズ 石丸明(短歌)さんと峯本つづき(詩)さんによる「夕陽のかたち」。2023/11/11の文学フリマで販売した短歌と詩の本。 8編の詩と31首の短歌を収録。 恋愛をテーマに季節を織り込んだ詩と短歌の世界。 九州のイベント「ふらっとぺらっと」での付録の折本『はじまりのにおい』も同封。お楽しみに。
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合同誌『夜を辿る』
¥500
SOLD OUT
サークル:白白明けで待ち合わせ 作家:不束百・藍沢紗夜 「真夜中から白白明けまで」をイメージした、不束百と藍沢紗夜の合同詩集。全6作の散文詩を収録しています。 Contents 二十四時 真夜中の始まり——藍沢紗夜 一時 未明に浸る ——不束百 二時 永い夜 ——藍沢紗夜 三時 明星は未だ ——不束百 四時 薄明のなか ——藍沢紗夜 五時 ひかりを抱く ——不束百 あとがき 栞もセットとなります。
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散文詩集『夜想』
¥500
SOLD OUT
サークル:白白明けで待ち合わせ 作家:藍沢紗夜 孤独な夜のための幻想散文詩集。 2018年~2021年までにTwitterに投稿した作品の中から厳選した29作品+書き下ろし7作品を収録しています。 過去に電子版を発行した『夜想 完全版』を製本用に編集したものです。 表紙イラスト:不束百 「星空のデザート」 ブルーベリーチーズケーキに星空を見た。 あれはデネブ、あれはベガ。じゃあアルタイ ルはきっとこれ。さそり座が狙うチョコレー トはホワイト、食べられちゃう前にフォーク を刺した。ふわり広がる甘味は、星になった あの子の形見。零れ落ちた涙はたぶん、いつ かの夏に見つけた流星の生まれ変わりだね。 「夜は海」 深海と浅瀬の狭間で彷徨っている、夜は海 だ、他のいきものの姿は見えず、気配だけが 漂う。溺れることも沈むことも出来ず、ゆら ゆらと波に揺られる。鈍った音が耳を撫でて は去っていく。目を閉じれば光が見つかる気 がした。君の名前を呼びたくて、繰り返し思 い出している、あの日の背中と最後の言葉だ け。
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ゆめのかけらたち
¥400
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サークル:白白明けで待ち合わせ 作家:藍沢紗夜 悩みながら、戸惑いながら、喪いながら。それでも生きていくための掌編小説集 過去に Web掲載した青春小説、純文学風、童話風など全11 編の掌編を加筆修正し収録、未公開作品も加えた自選掌編作品集です。1万字以下のお手軽に読める作品を集めました。 花が散る前に、一つ 花は、いつか散るからこそ美しい。最初にそう言ったのは、誰だったのだろう。 「 晴之さん、こっちこっち」 華奢な手で僕の手を引いて、円花はこの博物館の奥、鉱物が展示された場所に足取り軽やかに歩いていく。 「そんなに急がなくても」 「だって、早く情之さんに見てほしくって。ほら、綺麗でしょ? 自然の中でこんなに素敵なものが創り出されるなんて、なんだか 神秘的よね」 円花は腰を屈めてその水晶を覗き込んだ。 僕は、得意げにそう語る彼女の横顔ばかりが気になって、水晶ではなく、隣の彼女をじっと 見つめてしまう。 「綺麗だ」 「でしょ? ・・・・・・って、晴之さん、どうして私を見てるの。展示を見てよ」 「うん、見てるよ、 ちゃんと」 本当に? と不満げに頬を膨らます彼女の耳が、ほんのりと色づく。それがなんだか可笑し くて、僕はふっと笑みを漏らした。 ふと、円花が体を起こして立ち上がると、おもむろに僕に背を向け、数歩歩いてから立ち止 まった。 「・・・・・・晴之さん。私がいなくなっても、どうか思い出してね」 「な、なんだよ急に」 円花は振り返って、儚げに微笑む。その姿が段々と薄れて、靄が掛かるように視界がぼやけていく。 手繰り寄せるように手を伸ばして、名前を叫んだ。「円花……!」 伸ばした指の先に、見慣れた天井があるのに気付いて、僕はようやくこれが夢だったと気付 いた。 「また・・・・・・同じ夢・・・・・・」 体を起こすと、仏壇の上にある、笑顔の妻の写真と目が合う。 円花は、二年前の結婚記念日前日、僕と二人の幼い息子を残し、交通事故で亡くなった。職 場に行く途中でのことだった。 何かを訴えたいのだろうか、なんて邪推してしまうほど、近頃よく、この夢を見る。学芸員 だった円花の職場である博物館に、二人で出掛けたときの夢だ。
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ポストカード:「最高純度の幸福な悪夢」
¥100
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サークル:白白明けで待ち合わせ イラスト:不束百 ポストカード 「最高純度の幸福な悪夢」 不束百 ※実際のポストカードには転載禁止表示はございません。
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ポストカード:「思考の海に沈む」
¥100
SOLD OUT
サークル:白白明けで待ち合わせ イラスト:不束百 ポストカード 「思考の海に沈む」 不束百 ※実際のポストカードには転載禁止表示はございません。
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ポストカード:夜想
¥100
SOLD OUT
サークル:白白明けで待ち合わせ イラスト:不束百 ポストカード 「夜想」 不束百 ※実際のポストカードには転載禁止表示はございません。
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お稲荷様に嫁ぎました!
¥1,000
SOLD OUT
サークル:めがね堂 作家:霧内杳 「じゃあ私、朔哉と結婚する!」 私が結婚を決めたのは高3の冬。 しかも相手は……お稲荷様でした。 小2のとき、ひょんなことでお稲荷様と友達になった心桜。 けれど高三の冬、会えるのはもう少しだけだと告げられる。 神は大人になった人間とは会えない。 そういう決まり、だから。 けれど結婚すればずっと一緒にいられると知り、決意。 人間の世界を捨てて入った神の世界は――ブラック企業だった!? 奈木野心桜(なぎの こはる)18歳 高校卒業と同時に、神様に嫁いだ女の子。 明るくて頑張り屋さん。 少しくらい意地悪されたって、めげない。 まわりのために自分を犠牲にすることもいとわないのが、欠点? × 御稀津朔哉(みけつ さくや)260歳 九州を束ねる、稲荷神。 見た目は20代半ばの青年。 右目が濃紺、左目が金のオッドアイ。 我が儘上司と厳しい部下に挟まれ、苦労中。 心桜を溺愛。 けれど……もしかして、ヤンデレ? 好きな人のために飛び込んだ神の世界は……意外と人間くさかった!? どうなる、心桜!? 文庫サイズ(カバー付) 204ページ
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網代さんを怒らせたい
¥500
SOLD OUT
サークル:めがね堂 作家:霧内杳 「なあ。僕たち、付き合わないか?」 彼がなにを言っているのかわからなかった。 たったいま、私たちは恋愛できない体質かもしれないと告白しあったばかりなのに。 しかし彼曰く、これは練習なのらしい。 それっぽいことをしてみれば、恋がわかるかもしれない。 それでもダメなら、本当にそういう体質だったのだと諦めがつく。 それはそうかもしれないと、私は彼と付き合いはじめたのだけれど……。 和倉千代子(わくらちよこ) 23 建築デザイン事務所勤務 デザイナー 黒髪パッツン前髪、おかっぱ頭であだ名は〝市松〟 ただし、そう呼ぶのは網代のみ なんでもすぐに信じてしまい、いつも網代に騙されている 仕事も頑張る努力家 × 網代立生(あじろたつき) 28 建築デザイン事務所勤務 営業兼事務 背が高く、一見優しげ しかしけっこう慇懃無礼に毒を吐く 人の好き嫌いが激しい 常識の通じないヤツが大嫌い 恋愛のできないふたりの関係は恋に発展するのか……!? A5 2段組 102P
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使い魔がネコちゃんになりました
¥300
SOLD OUT
サークル:虚空100万マイル 作家:メイ JK魔女と使い魔ネコちゃんのドタバタコメディ! 柴犬とセキセインコの使い魔も登場します。 A5/28p 2024年2月発行
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寄せ植え
¥500
SOLD OUT
サークル:RetroLight 作家:一志 2つの中編と1つの短編を収録。 1.「ラブソング」……複数の名前を持つ青年は、ある少女のクローンをターゲットにした依頼を受ける。クリスマスまで待ってと言った彼女と、青年の奇妙な数日の話。 2.「薄紫の揺籃」……安楽死を認めるラベンダーの街で、審査官の「私」は遠い街からやってきた殺人犯の審査の担当を命ぜられる。 3.「旅人」……かつて戦場が隣り合わせにあった街に、大きな薬籠を背負った青年が滞在した日のこと 中編集(小説) サイズ:A5 頁数:130 かちかちかち、と神経質な時計の針の音。そろそろかな。 意識もぼんやりとしていて、事務所のソファで丸まって眠っていると、ブルースが入ってくるなりため息をついた。僕はやつの小言が面倒だったから、背もたれに顔を押し付ける。わざとらしく背中を上下させて呼吸を繰り返す。でも、ブルースは僕が眠っていようと起きていようと関係なく文句をこぼす。 「頼むから、シャワーを浴びてから眠ってくれないかとなんども言っているんだが」 ブルースは潔癖性なのだろうか、いつもそんなことを言う。僕は眠たそうに顔を上げた。 古めかしい貴族の書斎でもイメージしているのか、この部屋は茶色ばかりで、何もかもに秩序が敷かれている。本の並び方は作者の名前順、それから題名順、本の高さもきっちり並んでいる。カーテンはきっちり折り目がつき、デスクの新聞は綺麗に四つにたたまなければならない。今日も灰色の空が続いているから、窓は十センチだけ開けることになっている。そんなきっちりとした彼のソファに、僕は似つかわしくないのだ。 「けれど、ここがよく眠れるんだよ」 櫛も通らない髪に指を通そうとして、僕は手を止める。きっとソファは僕になんか座ってほしくなんかないだろうけれど、彼の仕事場は落ち着く。きっと、人間味というものがないから。無機質なにおいで、僕はぐっすり眠ることができる。 「それは光栄だ。だが、君、そんな泥まみれはやめておくれよ。なぁ、いったいどういうことだ? なんだってそんなボロの服を着ている? 俺が買ってやった服は?」 「あるよ。着ていないだけで」 穴は空いて裾がほつれているジーンズ、袖口が破れているぺらぺらのコート。それが僕のいつもの格好。ブルースは大通りから少し外れた、小洒落た個人店で買ったというシャツとベストを着ている。 彼が僕にくれた紺色のウールのコートも、そういうところで買ったやつだ。十二月の寒空の下で僕がこの事務所を出入りすることが、見るに絶えなかったのだという。 「服は着るためにあるんだ、ベンジャミン!」 ブルースはちょっと尖った声で言った。ここのソファの寝心地は悪くないのだけど、ブルースの金切り声はちっとも子守唄にはなりゃしない。彼は茶色のふちのメガネのはしっこをつまんで持ち上げる。 「知っているよ」 「ならばせめてシャワー室にでも行ってくれ。タオルなら置いてあるから」 「ありがとう」 あたたかい風呂はありがたい。僕はのっそりと体を起こした。 「それが終わったら配達に。いいか、君は俺の大事なクライアントに会うんだ。それなりに身綺麗にはしておいてくれ。そのボロのコートは脱いでいけよ! 俺のを貸してやるから」 「うん」 二階のシャワー室に行こうとすると、背後でため息が聞こえた。 彼は弁護士だ。そこそこ名の知れた、有能な人間らしい。人の面倒ごとを解決するためのお仕事。 彼は僕のことを、仕事をろくに持っていない穀潰しか何かだと思っている。出会ったのもここ三ヶ月のことで、互いのことを詳しくはあんまり知らない。彼は僕のことを、かわいそうなやつだと、適当な小間使いに出してはなんらかの報酬を提供する。今日の報酬はソファという上質な寝床とシャワー室。それが提供されるのならば、このくらいの使い走りはお安いのだけど、彼は一つだけ大きな誤解をしている。僕は正してやるつもりは決してないけど、僕は穀潰しではない。僕には僕の、仕事を持っている。 僕の本業は、殺し屋。人の命を扱う、単純な仕事だ。 仕事が来ないときは、僕はブルースの事務所に押し掛けたり、バーに行ったり、図書館に行ったり、ごく一般的な市民として過ごしている。そう、この灰色の街が望んでいる、『健全な精神と健全な身体は健全な国家のため』の、構成員の一人。 シャワーを浴びて、彼の仕事部屋に戻ると、ソファの前のローテーブルに、ファイルと綺麗に畳んだトレンチコートが置いてあった。 ブルースは自分のデスクに書類とノートパソコンを広げて、もう僕のことなんか見えていないようだった。ファイルの上にはメモが添えてあり、そこには彼のクライアントの住所が記されている。僕は黙ってトレンチコートを羽織り、ファイルを片手に事務所を出た。 息を吐き出すと、白い煙がふわりと舞った。ファイルを脇に挟んで、ポケットに両の手を突っ込んで通りを歩き出す。 ここは、灰色の街だ。すれ違う人たちもコートの襟を立てて、早足で通り過ぎていく。事務所の隣を通るメインストリートを進み、そこから奥まったところにある住宅街の中に入ると、緑色の屋根の家を見つけた。名前を照らし合わせてからドアベルを鳴らすと、二つ数えたくらいで女の人が顔を覗かせた。プラチナブロンドの髪、見知らぬ男がやってきたことに怪訝そうな顔。それでもって、覚えにくそうな、どこにでもいそうな顔。でもきっと、シャワーを浴びてブルースのトレンチコートを羽織っていることで、少しは彼女の不信感は和らげることはできたのだろうか。 「ブルースの事務所の使いです。ファイルを渡すように言われました」 僕はファイルを差し出すと、彼女は思い出したかのようにファイルをひったくった。ページをぱらぱらめくってから、何を書いてあるのか知らないけれど、その内容に彼女は心底ほっとしたようだ。「ありがとう。先生によろしく伝えてください」 「はい」 何をよろしく言えばいいんだろう。頷くだけ頷いて、僕は事務所に戻った。 メインストリートにまた出ると、道端にパトカーが停まっていた。通行人たちはちらちらと気にした様子を見せていて、降りた警官が野次馬たちを鬱陶しそうに追い払う。パトカーの助手席からも人が出てきて、路地に歩いていく。それを尻目に、僕はブルースの事務所にノックをしないで入った。 「早いな」 「よろしくって言ってたよ」 僕は言われた通りに、彼に伝えた。 「そうか」 ブルースは淡々と答えた。窓を見やると、暗くて厚ぼったい雲が積もっている。そろそろこの街にも雪が降るころなのだろう。 「昼食は食べていくか?」 「うん」 ブルースは顔を上げずに聞いて、僕は返事をした。デリで二人分のサンドウィッチとドーナツを買ってくるのは、僕の役割だ。僕がいないとき、彼は昼食をとっているのだろうか。昼時になってようやく伸びをしてみせるまで、彼は根っこが生えてしまったみたいに椅子にくっついている。僕はコートを脱いで、ソファに座った。昼食まで時間があるから、暇つぶしに新聞を読むことにした。一面には政府が不祥事で個人情報を民間企業に流してしまった、という内容。僕にはよくわからない内容だが、とにかく「一大事」のようだ。 ソファの上に膝を折りたたんで座り、新聞をばさばさと折って三面記事をめくると、隅っこのほうに市議会議員の殺人事件について記述があった。もう何日か経っているけど、犯人は議員になんらかの恨みを抱いていた人物として捜査を拡大しているという、ありきたりなことしか書いていなかった。半分正解、半分不正解。 その隣には、サプリメントの広告。カラフルなカプセルには、いろいろな効果がある。わざわざサンドイッチを食べなくても済むもの、顔からシミとか皺とかを出ないようにするもの。きっと、僕のいないときのブルースは、こういったものを飲んでいるのかも。安価で無味の、栄養素の塊。灰色の街が作り出した、技術の結晶。とっても効率的と謳っている。紙をめくる。今週のポッドに入った人たちのリスト。名前の羅列は、この国に認められた人々であることの証拠。僕はその名前を眺める。 記事を読み終わらないくらいで、呼び鈴が鳴った。ブルースが視線を僕に向けたので、新聞を置いて扉を開けに行った。 「お話をうかがいたいのですが」 扉の隙間からねじ込まれた警察手帳。さっき、メインストリートに停めていたパトカーの助手席から出てきた警官だ。小柄な女の人で、気が強そうに振舞いたいのか、僕が扉を開くと容赦なく踏み込んだ。今から突入しようとしているくらいの勢いだ。僕は扉にかけていた手を離して、一歩退いた。 「弁護士は奥に」 「えぇ、どうも。あなたは?」 「小間使い」 彼女は僕をしげしげと眺めると、案内されるのも待たずに、足音を立てて奥の仕事部屋に向かう。開け放たれたままの玄関口をそっと閉めて、僕は後に続いた。 「メリアムと言います。突然申し訳ありません。現在、ある殺人事件について調査をしておりまして」 ブルースのデスクの前に刑事さんは直立し、ブルースの方もきっちりとネクタイの位置を正して、彼女と握手を交わした。言っているわりに、彼女は申し訳なさそうにしているようには見えない。むしろ、彼女が持っている権力の前では、気難し屋のブルースも協力的になるべきであると言いたげだ。ブルースは眼鏡を押し上げる。いつも不機嫌そうな顔を、今はクライアント向けの、ちょっと口角をあげた笑みを浮かべたものにしている。 「聞き込みでしょうか」 「はい。先日殺害されたジェンキンス議員のことはご存知でしょうか?」 さっき新聞で読んだ、殺された議員のことだ。 「えぇ、まぁ。テレビで見ました。痛ましい事件です」 「殺害されたのは、ここの隣のメインストリートからすぐの場所です。事件発生時のことは憶えていらっしゃいますか?」 「先週の金曜日でしたよね?」 「はい」 「……そうですね、その日は変わらずこの事務所にいました。後ろにいる彼もです。私は二十時ごろに、この事務所の上にある自室に入りました。事件は確か深夜に起こったと新聞で見ましたが、何か騒ぎを聞いて起きた、ということはなかったと思います」 「なるほど。ジェンキンス氏とあなたは個人的な接触はありましたか? その際に、何か恨みを買われているということは?」 「彼が選挙活動をしている際に握手を交わした程度です。彼のこと自体はよく知りません。あとは新聞やテレビで見聞きした程度で」 「あなたの知り合いで、ジェンキンス氏と関わりがあるという方は。特に弁護士仲間とかで」 「いいえ。私なんて、家庭問題を扱っているだけの弁護士ですから」 「わかりました。またお話を伺うかもしれないので、よろしくお願いします」 「是非とも」 メリアム警官はくるりと向きを変えて、僕のことを睨みつけてから出て行った。どうしてああも威嚇を振りまいているのだろう。僕は肩を竦め、ブルースを見た。 「政治家なんて、恨みを買われるのが仕事みたいなものだろう」 彼もまた呆れたような顔をしていた。時計を見やる。彼はまた小さくため息をついた。 「昼食、買ってこようか」 「あぁ」 「なににする」 「いつもので」 わかったと返事をした僕はコートを再び借りて、いつも行くデリに足を運んだ。 メインストリートの向こうには、まだパトカーが止まっていて、メリアムたちがあちこちに聞き込みをしていた。その反対方向に歩いて、褪せたオレンジの看板のデリに入った。新聞と雑誌が壁に立てかけられていて、棚にはスナック菓子とボトルに入ったジュースや水、デリのキッチンで作られたクッキーやランチボックスなども置いてある。ここの店長であるおばあちゃんが、カウンター奥に釣り下がっているテレビに体を向けていた。そのすぐ隣の戸棚には、サプリメントがどっさり入った瓶の列ができている。 僕が入ってきて、同じようにテレビに目を向けると、「物騒ね」とぼやいた。僕はそうだね、と相槌を打った。ずっとニュースが流れている。生きていたときの男が、ワゴンから顔を出して周囲に手を振っている。彼を応援する声があって、映像が切り替わると、今度は誰かと固く握手をしている。そして今度はレストランの映像。夜の背景に、小さなランプが看板を照らしているはずなのだけれど、肝心の文字はぼかしがかけられている。 「いつものでいいんだっけ」 「うん」 おばあちゃんはカウンターのケースからサンドイッチを出した。 「あのジェンキンスてのは、あんた、どういう議員だったか知っているかい?」 「ううん」 「奴の公約の一つは、この街の全ての人間にポッドとサプリを支給することだった」 「お湯を沸かす方じゃないやつ?」 「あんたはたまに変わったことを言うわねぇ」 おばあちゃんは丸く見開いた目をぱちくりさせてから、小さく笑った。サンドイッチを紙にくるんでから、コーヒーを淹れてもらう。 「そうかな」 こんな寒いときに、みんながお湯を沸かせたらきっといいことなんだろうな、と思ったのに。 「まぁ、私たちのときにも、親が死ぬ前に墓の準備なんかもしていたもんだけどね。あんた、墓って知ってるかい」 「うん、知ってる」 おばあちゃんは、時折自分の若い時の話をしてくれる。まだアンチエイジング・サプリもそれほど浸透していなくて、人は死ぬためにスイート・ポッドなるものに入ることもしていなかった時代のことだ。人は石で作られた墓というものの下で眠るのだ。僕もそれは知っている。みんな黒い服を着て、儀式をするんだ。でも、おばあちゃんは僕なんかよりもずっと物知りだ。 「またその話、してね」 「覚えていたらね」 コーヒーが二つ揃ったので、僕はお礼を言ってデリを後にする。テレビではコマーシャルが流れていた。一日の間になんども聞く言葉だ。 『あなたの健全な精神と身体のパートナー、ワトール・コーポレーションがお送りしております。』 メリアムがデリの前をうろついている。やがて、僕のことを見つけると、「さっきの」と声をかけられた。さっきはろくに顔なんか見なかったけれど、彼女の顔はなんだかてかてかしていた。アンチエイジング・サプリのせいだ。そういった人たちは、なんだかてかてかした顔をしている。この街の多くの人がそうだ。だから僕は、この人の顔なんかすぐに忘れるだろう。 「なに?」 彼女はその顔を僕に向けた。片眉が上がっていて、じろじろと見てくる。 「何度も悪いけど、あなたの名前も一応聞いておこうかと」 「ベンジャミン」 「ありがとう。連絡先は?」 「ブルースと同じ」 メリアムはメモに僕の名前を書き付けると、そのまま上着のポケットにしまった。 「一つ聞いてもいい?」 僕は興味本位で尋ねた。 「手短に」 「この前、ホームレスが死んでいたんだ」 僕はこの間路地で、丸くなったまま倒れていた彼のことを思い浮かべた。 「それが?」 「彼のことはだれも調べないの?」 刑事さんはきょとんとしていた。そして、ため息まじりに答えた。 「だって、ホームレスでしょう? この時期じゃ凍死しても無理ないわ、かわいそうだけど」 「彼はポッドに眠るの?」 「さぁ。悪いけど、それは私の仕事じゃないから」 メリアムはそんなことか、と言いたげにパトカーに踵を返した。 命なんて、こんなものだ。僕はお腹が空いたし、コーヒーが冷める前に戻らなくてはいけない。冬に飲む冷えたコーヒーは、なんだか置いていきぼりにされたような気分にさせられるんだ。
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The Wall
¥600
SOLD OUT
サークル:RetroLight 作家:一志 『壁』で仕切られた大きな街。 一つはウォード、一つはガーデンと呼ばれていた。 夢を諦めた『壁』の清掃員・アーチは、大事な妹の結婚式を控えていた。 ささやかな幸福の日に立ち会うはずだったが、当日、妹たちの姿はなかった。 長編(小説) サイズ:B6 頁数:178 プロローグ 疲労で重たくなった体を持ち上げて、ようやくアーチは壁の淵に上った。腰回りから提げた道具入れがぶつかりあってかちゃかちゃと音を立てる。 高さ約十八メートルの壁の上に立ち、大きく息を吸う。冬の訪れを感じる、鼻の奥につんと入り込んでくる冷たくて、埃っぽい朝の空気。遠くの灰色の空からようやく太陽が起き出そうとしている。壁の内側では見られることのないこの高さからの朝日を浴びようと、うんと伸びをしてみる。 足場は八十センチメートル程度。遠くで見えるのは、中心街にそびえる白のビル群とその街並みをぐるりと電車の線路だ。壁よりも高い建造物が並び立ち、さらに奥には建設途中の高層ビルの骨組みが朝日に照らされている。 一方で彼が立っている壁のすぐ下は、永遠に描かれ続ける落書きがようやく落とされたところだ。狭い道の向こう側には、バリケードのように低い建物が壁沿いに並んでいる。 この巨大な壁は、かつては一つだった街を二つにした。 年配の話好きたちは、壁が建設された当時のことをよく子供たちに聞かせたがった。そのときに自分たちがどれだけ苦労をしてきたかということを。そして、壁のはじまりは本当に小さなところからだったということを。 本来一つだったときの街の名を口にする者は消え去り、内側は『ウォード』、外側は『ガーデン』と呼ぶようになって何年も経ち、アーチはウォードで育ってきた。壁の内側と呼ばれる土地は、ある者はかつて収容所だったと語り、ある者は廃棄場と呼んだ。いずれにしても、人々から疎まれたものたちがそこに積み上げられていた。土地はどんどん膨れていき、その中で働く者や関係者が根付いた。生活に必要な物を満たすための商売が発生し、それは周囲の土地を侵食しながら広がっていった。気が付けば、一つの区画となり、コミュニティになっていた。しかし、それを懸念したのはそこから遠くに住む人々であった。その膨れていく土地を止めようと作られたのが、この巨大な壁だった。 今となっては、この壁の内側の世界は、ガーデンで『普通』の生活ができなくなった者をとにかく押し込めておくための、巨大な収容施設だ。 そんな老人たちの話を聞かされてきたアーチも例に漏れず、ガーデンが嫌いだ。ずっと聞かされたせいでもあるが、あの遠くで立ち並んでいる高層ビルから見下している街そのものがひどく傲慢なものに見えるからだ。そのせいなのだろうか、まだ眠っている街と同じくらいの高さに立って、睨むように眺めてから降りることが習慣になっていた。 同じように仕事を終えて同僚たちは、アーチを横目に後ろに下がり、壁の内側へと降りていく。彼らが降り始めて少ししてから、アーチも降下用のロープをしっかり両手に握って内側へと降りた。もう数分もすれば、彼らが磨いた壁をガーデンの人間たちはいつもの景色の一部にして眺めるのだろう。ウォードから見える壁は消されることのない落書きと、汚物を投げつけたような跡にまみれているが、作業員を含めて誰もそれを気に留めることはない。彼らの仕事はあくまで、『ガーデン』から見える壁が綺麗になっていればいい。それでガーデンに住む人間は、この街は清潔で安全であると安堵するために。 体に巻き付いたいくつもの安全用の機材を外し、ヘルメットを片手にぞろぞろと作業員たちは事務所へと重たい足取りで歩いていく。アーチは赤毛の髪をかき上げた。ヘルメットの中で汗をかいていてべたべたするし、洗浄機で汚れた水が跳ねて、顔についた泥が乾きつつある。黒ずんでいる厚手の手袋で頬のむずむずするところを擦れば、汚れは広がっていく。大きく欠伸をした。家に帰ったらシャワーでも浴びてさっさと眠りたかった。 ロッカーに作業着を押し込み、ほとんど物の入っていないリュックを片腕に通してすぐ隣の部屋に入る。すれ違う同僚たちと互いに「お疲れ」と口にしながら、事務室の隅の列に並んだ。アーチと同じくらいの年代の事務員が、一人一人の名前を確認しながら今週分の給料を封筒に入れて手渡している。隈がくっきりと刻まれた両眼は今にも閉じてしまいそうではあるが、手はてきぱきと動いていた。前の作業員たちは給料を受け取ると、すぐさま帰っていくものの、顔見知りの一人がアーチを見つけてふと足を止めた。 「妹、結婚するんだって?」 「あぁ、うん。明後日」 アーチはそれでふと目が醒めた気がした。同僚はにこりと笑みを浮かべる。 「じゃあ、よく休んでおかないとな。おめでとう」 「ありがとう」 口笛を吹きながら同僚は事務所を出ていき、アーチのすぐ前には事務員が名簿を指先でなぞっていた。 「オルコットです」 アーチは番号だけが書かれた作業員のカードを机に置いた。 「はい、はい。えーっと、今週は……四日も勤務されていたんですね。はい、こちら」 手早い計算と共に金を封筒に入れて、事務員はアーチの前に置いた。 「どうも」 「おめでとうございます」 先程の会話が聞こえたのだろう、ぼそぼそといた声で事務員は言った。あまり他の作業員とも必要最低限の会話以外をしているのを耳にしたことがなかったので、アーチも目をぱちくりとした。それでも祝いの言葉は嬉しかった。ありがとうございます、と彼は会釈をした。 Chapter Ⅰ 壁の外では朝日が顔を出しているが、まだウォードは薄暗い。灰色がかった雲に覆われた空の下、アーチはしかめ面をしながら自転車を漕いでいた。外にいるのは早朝仕事を終えて帰路に着く彼と、脇の路地で寝転んでいる酔っ払いかホームレスたちだ。それらを時折横目で捉えるが、すべて日常の風景に溶け込んでいた。 緩やかな下り坂はペダルを漕がずにそのまま走り、薄く濁った雨水が溜まっただけの噴水がある広場を横切った。住宅は所狭しに並び、適当に建て増しされたせいで傾きかけているものもあれば、窓を開ければすぐ隣の建物の扉に手が届くほど隣り合っているアパートさえある。ウォードに住む人間は日に日に増えて、しかも住める場所に人が集中しているせいだ。それに比べれば、アーチの家はかなり良い家だと、彼自身思っていた。一階はアパートのオーナーの親族が運営しているレストランがあり、アーチの部屋はその上にある。レストランはまだ閉まっていて、しんと静まりかえっている。屋外の階段をそっと上り、玄関の鍵もできるだけ静かに開けた。 玄関に自転車を置くと、彼はふーっと大きく息を吐いてくしゃくしゃの赤髪を掻いた。汚れでべたついている髪を先に洗うか、それとも何か食べるか、はたまたこのまま眠るか、考えているようで何も考えがまとまっていなかった。四日の壁掃除仕事は流石に堪えた。その間も、昼間は下のレストランや画材屋でのアルバイトをこなして、眠る時間もあまりなかった。けれど、明後日までは休みを取っている。 何より先に寝よう、とアーチは大きなあくびを一つした。玄関からすぐに小さいキッチン付きのリビングルームがあり、テーブルにはメモと皿が、他の書類や手紙を押しのけて真ん中に置いてあった。彼が家を出るときにはなかったものだ。メモには『食べてね』という短い言葉があり、皿にはサンドイッチが二つ、ラップにかけられていた。今眠っている同居人が作って置いてくれていたのだろう。うっすらと見える青紫色のジャムに彼はふと微笑み、空腹を感じた。やっぱり先に食べてしまおう、と彼は荷物を床におろしてソファに腰掛け、ブルーベリージャムのサンドイッチを齧った。甘いジャムに、体が疲労を思い出したのかソファに頭を預ける。このまま眠ってしまいたいと顎を動かしながら目を閉じかけるが、どうにかすべて口の中に収めると皿を持って立ち上がった。片付けをしながら、ふと壁にピンで留めたカレンダーを見やる。二日後の日付には大きな花丸が書かれていた。 床に投げ捨ててあった荷物を持ち、テーブルの上の追いやられた物たちの中からペンを見つけると、メモに走り書きを付け加えて部屋に入った。ベッドがぎりぎり収まり、淡い黄緑の壁紙が禿げかけた部屋。立て付けの悪い窓が一つあり、ようやくウォード街に入り込んだ朝日がここにも差し込んできていた。ベッドの上に寝転び、すでに眠りの世界に入りかけていた彼はそのまますとんと落ちていった。 あまりの疲労だったからなのか、いつもは同居人が出かけるころには目を覚ましていたのだが、起きたのは昼ごろだった。すっかり外は明るくなり、街の喧騒が遠くから聞こえていた。仕事、と飛び起きたもののすぐに今日は休みだったことを思い出したのも束の間、別な予定を入れていたことを思い出してベッドから降りた。壁掃除からの服のままで眠ってしまったのも後悔した。くしゃくしゃの髪はなお寝癖がひどくなっていて、適当な服をベッド下の収納から引っ張り出すと、早足でシャワー室に向かった。リビングを通り抜ける途中、アーチはふとテーブルのメモに書き足した『ごちそうさま』の文字の後に、『おつかれさま、いってきます』という文字が書き足さられるのを見た。こんな言葉のやりとりができるのも、もう何日もないんだな、とシャワー室で汚れを落としながら彼は物思いに耽る。 妹が結婚する。それも、彼女が望んだ、良いパートナーと。それほど素晴らしいことはない。それでも寂しくもあるのは、彼女と二人で生活してきた歳月があまりにも長かったからだろう。それでも最後にはこの答えに行き着く。きっと良い家族になれる、あの二人なら。それが妹にとっての最大の幸福だ。それに俺にとっても。あたたかくて、支え合う、そんな家族。俺たちの家とは違って……。 数十分後、髪も少し湿ったままでアーチは階下のレストランに入った。 人の姿はまばらで、窓際のテーブルに老人の二人組が冷めたコーヒーを前に話しこみ、カウンターでは昼休み中の作業員が皿をつついていた。入ってすぐ左手にある明るい緑で塗装した木製のカウンターの内側には、大柄な男がのっそりと手を動かしている。熊のようだとも言われる男は、窮屈そうに見えながらもてきぱきと手を動かしており、アーチが入ってきたことに気がつくと、あぁ、と低い声で呟いた。アーチは会釈をして、カウンター近くのテーブルについた。カウンターと同じ色で塗装したのを、アーチも数年前に手伝った。それももう脚がガタついている。 「ん」 カウンターにいた男が、コーヒーの入ったカップをアーチの前に置いた。 「ありがとうございます。バートは?」 「休憩中」 くぐもった声で男はそう答えると、再びカウンターの中に戻る。大柄な体格な上に表情の変化に乏しいために不機嫌そうに思われがちだが、店主のグライドはひどくあがり症で人と話すのも一苦労だという彼にはホール担当が欠かせない。アーチは熱いコーヒーに口をつける。シャワーの水が冷たかったので、体はすっかり冷えていた。飲み物で暖をとっていると、ばたばたと小走りの後に勢いよく店の扉が開けられた。 「ごめん、待たせた?」 アーチの前に座ってきたのは、彼と同世代の女だった。適当にまとめた長い黒髪を後ろにやって、店の入り口の方に視線をやって手招きをした。アーチが振り返ると、膝に手をついて息を切らしている男の姿があった。 「そんなに急いで来なくても」 颯爽と走っていく彼女と、それを必死で追いかけていた男の姿が目に浮かび、アーチはそう言った。 「時間間違えたかと思って」 彼女の方はけろりとして、カウンターに向かって「アイスカフェオレください!」と大声で言う。店主はこくりと頷いた。 「アダムは?」 「み、みず……」 「じゃサイダーで!」 アダムはまだ肩で息をしながらもどうにか女の隣に座る。背は高く、気弱そうで青白い表情で耳につけたいくつものシルバーのピアスを、気分を落ち着かせるために触っていた。 「やぁ、アーチ」 それでも男は笑みを浮かべようとしていた。 「アダムも、付き合わせて悪いな」 「ううん、僕が、ミアに付いてきただけだから」 「そういうわけだから、さっそくね。あたしたちの予定表は書いておいたから。これ、帰ったらレズリーに伝えておいて。向こうは何時から使えるんだっけ?」 厚い手帳を広げながらミアはてきぱきと話し、アーチにもメモを渡した。 「教会は朝八時から使っていいって」 「開始十一時だよね? うん、まぁ、大丈夫だと思う。相手の方はどうするか聞いてる?」 「向こうは向こうで準備するってさ」 「本当は揃えたかったけど、しょうがないか。確認しなきゃいけないのはこれくらいかな。あ、ちがうちがう、忘れてた」 「報酬の話じゃなかったっけ」 まずはその話ではなかっただろうか、とアーチは肩をすくめる。するとミアは笑いながら「そうだけれど、そうじゃない」と答えた。 「式の後の移動の話。こっちで食事会でしょ。この前片付けしてから向かうってあんた言ってたけど、でもそれじゃ遅れて参加になるじゃない? だからあたしの友達に片付けだけ手伝ってって頼んだんだんだ。だからレズリーやあんたはそのままこっちに移動しておいて」 「そりゃ助かるけど、その分の手間賃、今から考えるにしたって……」 「どうせ一時間もかからないんだから。それに、あたしが課題手伝ってあげた子たちだし、レズリーにはあたしの制作のモデルやってもらうことになってるから、その辺は考えなくていいって」 アーチはため息をつきそうになる。ここまで手際が良いとは。思わず苦笑を浮かべながらも礼を言うことくらいしかできなかった。 「それで、アーチからもお礼にちょっとして欲しいことがあるんだけれど」 「聞ける範囲なら」 ミアは一度口を閉じた。言おうか迷っている様子だった。 「ほい、飲み物お待ち」 そこに割って入ってきたのは、店主ではなく休憩から戻ってきた若い金髪の男だった。シャツの上にエプロンをかけていたが、飲み物を置くなりアーチの隣の椅子に腰掛けた。 「よぉ、ミアと……えーっと」 「アダム」 アーチが咎めるように名前を告げると、男はそうだった、と指を鳴らす。名前を覚えらえていない方はあまり気にした様子でもなく、小さな笑みを返した。 「どうも、バート」 ミアは挨拶の後に、どうやら言うことを決心したのかアーチの方を見た。 「絵が欲しいの。今度卒業生たちで作業部屋を使って展示会をやることになったんだけれど……壁がぼろぼろだし、きっと見栄えもするし、と思って」 言葉を探しながらなのか先ほどよりもゆっくりと話すミアに対して、アーチは視線を落とした。 「それだったら、そういうクラスの在校生に言ったほうが、喜ぶんじゃないか? それで誰かの目に留まればって思うだろうし。それに、もう全然描いてない」 「あるものを貸してもらうのは?」 「とっくに捨てたよ、邪魔になるだけだし」 悪いけれどそのことに関しては何も出来ないよ、と力なく笑いながらアーチが言うとミアは寂しげな表情をした。憐れみというより、本当に残念がっている様子に胸が痛んだ。 「こっちばかり助けてもらってるのに、ごめん。それとこれ、ドレスのお礼」 アーチはいくらかを入れた封筒をテーブルの上に置いた。今日会う用件はこのためだけのはずだったのだ。 「……その、作業部屋のこと、壁の塗装とか修理とかだったら手伝うから、その時は連絡してくれよ」 言い訳がましいことを言っていると、自分でも自覚していた。ミアは首を横に振った。 「ううん、こっちこそ、いろいろと話しすぎちゃった。そろそろ仕事戻らないと」 飲み物代を置いてミアは席を立とうとしたが、アーチが払っておくからと言って二人を送り出した。 「ありがとう、当日楽しみにしてるから」 「うん、よろしく」 二人が並んで歩いていくのが見えなくなると、バートは小さく口笛を吹いた。 「あの彼氏、お前を警戒してるな」 「そんなわけないだろ」 呆れながらアーチは座り直す。アダムがいつもミアと行動を共にしているのは、単にそうしたいからだろう。彼女にとって自分は、かつての同級生で、数年来の友人であるということはアーチ自身も自覚しているし、何よりミア自身だってそう思っている。 「じゃあ、俺も出るから」 飲みかけのコーヒーを流し込むと飲み物の代金をテーブルに置いて、アーチは再び席を立つ。 「今晩どうするんだよ? 兄妹で最後の晩餐か?」 「残念だけれど、友達の家で女子会だってさ」 冗談めかして言うと、フラれてやんのとバートも軽快に声を上げて笑った。グライドには会釈をしてから外に出ると、広い道路に続く道を下った。朝方とは違って、人や乗り物の往来が増えている。黄色の、のろのろと左右に揺れながら進んでいくバスに飛び乗り、後方の席に座った。車内の広告には作業員募集の求人に紛れて、展覧会のポスターが貼ってあり、思わずそれから目を背けた。ポスターには『壁から飛び出した天才・ラパル、凱旋』というキャッチフレーズとともに抽象的な彼の代表作の絵画が載っていた。 バスを降りたのは、人通りの少ない重苦しい建物の前だった。他に降りた乗客はいなかった。鉄格子の門を前にすると、どうも首周りが窮屈な感覚が押し寄せてくる。早足で彼は守衛室の前を通り過ぎていく。目の前にあるのは、どうにか清潔感を醸し出そうとしている灰色の重厚な建物だ。エントランスの奥側はガラス張りになっていて、そこから中庭が見えた。看護師と簡素な服を着た者たちが日光を浴びにベンチに腰掛けていたり、軽い体操をしていた。左手には受付があり、ガラス戸越しに中を窺う。職員の一人が気付くと、にこやかに彼を迎えた。アーチも顔馴染みの職員だった。 「面会ですよね。準備できてますよ、どうぞ」 監獄の中の監獄。アーチは内心この施設のことをそう思っていた。どんなに清潔で、職員の何人かは親切で明るくとも、陽が差す窓が部屋の高いところに一箇所だけの薄暗い面会室に入ったときには。 部屋はコンクリートが打ちっぱなしの壁で、アクリル板で部屋自体が区切られ、奥には鉄格子の重々しい扉が佇んでいる。アクリル板の手前に固定された椅子に跨るように座っていると、板の向こうの扉が開いて、無表情を貼り付けた警備員に連れられて男が入ってきた。ひどくやつれて、目が落ち窪み、体に力が入っていない。淡い水色の入院着は皺だらけで、襟元には斑点模様の染みがある。 男は警備員に軽く背中を押され、よろけながら椅子に腰掛けた。その男を目の前にすると、アーチは喉に何かが詰まったような感覚を覚える。ぼさぼさの髪は長い間洗わずにろくに櫛も通さなかったのか、絡まって固まっており、その隙間から覗く目には目やにが残っていた。それなのに、何かを見透かしてくるようで、アーチは視線を逸らす。 「ひでぇ隈だな」 先に口を開いたのは男の方だった。這うような抑揚のない言葉だ。自分が言う台詞かよ、と言い返そうとして飲み込んだ。 「明日、レズリーの結婚式だ」 「先週、話に来たぞ」 アーチの眉がぴくりと動いた。そんな話はしていなかった。まさか、黙って面会に? 「……リハビリの状況は?」 続きを話す気がなく、アーチは本題へと切り替えた。男はため息を吐いてから、ごまかしの笑みを浮かべた。そんなものに意味がないと、アーチ自身さえも冷たく侮辱したような笑みだった。その表情が何よりも不愉快だった。男は話すつもりもないのか、背もたれに深く体を預けてこう言った。 「お前、昔の俺に似てきたな」 この男は知っている。そう言えば自分が怒り、傷つくということを。二度と来るものかと怒鳴りつけた後に、再び面会したことに自分だけが嫌な思いをするのも。前回は何を言ったことが原因だったのか、思い返そうとしただけでも頭が痛い。アーチはため息をつかないようにと咳払いを一つした。 「じゃあ何もせず、する気もないんだな」 する気もない、という箇所には特に言葉を強くした。むすっとした男は視線をそらしたものの、すぐに目を見開いた。 「これ以上俺に何をしろっていうんだ? 医者だの、なんかの肩書きの奴らが、偉そうに話したところで、何が変わるっていうんだ? 問題は、仕事と金がなかったってことだ。それを、あんなメモ取って人の話きいて適当に相槌打っている……」 「問題なのは、あんたに自覚が何もないことだ」 怒りを滲ませながらアーチは言葉を遮った。本当は、言いたいことはたくさんあった。全部お前のせいだ。それで俺と妹の生活も人生もめちゃくちゃだ。こみ上げてくる感情をどうにか抑え込む。 「ようやく、人並みの幸せを掴めるんだ、あいつは。あんたも、その邪魔にならないようにだけでも、考えてみろよ」 「邪魔?」 男は痩せた体に見合わず素早く身を乗り出した。アーチは扉のすぐそばで控えている警備員を一瞥し、目の前の男を冷ややかな目で見下ろすように席を立った。警備員が応じるように男の背後に近付いた。 「俺は、あんたみたいにはならない」 男が怒号を上げて立ち上がろうとしたところを、警備員が肩を掴んだ。叫び声は意味をなしておらず、怒りに任せて机を両手で勢いよく叩く音が響いた。アーチは自分を呼び止めるような怒号も無視して部屋を出ると、廊下で待っていた職員に会釈をした。 「やっぱり、今回も難しかったですか」 「……すみません」 「いえいえ、そんな謝らないでください。あの、よければ今度、家族会とか出られたらどうですか? 同じような患者さんのご家族が集まって、どうされているかとか……やっぱり、お忙しいですか?」 廊下を歩きながら、職員の案内にアーチは頷いた。 「いえ、予定だけ教えてもらえれば、考えておきます」 そうやって、あいつは俺たちの時間を蝕んでいくと思ってしまう。妹だったら前向きに参加するだろうに。 「先週、妹……レズリーが来たって言ってたんですけど」 「えっ、あぁ、はい」 職員も、アーチが知らなかったことが意外そうに頷いた。 「確か、学校の帰りか何かに少し時間が出来たからと言っていらっしゃいましたよ」 「あいつ、どうでした? レズリーだと、言うこと聞きますか?」 「どうでしょう……立ち会った警備員が言うには、妹さんがずっと話しているのに、何も答えないでいたみたいで。その後すぐに帰られたかと思いますよ」 「そうでしたか」 エントランスに戻り、二人はいつものように次の面会の日程を決めた。さっさと出ていこうとしたところ、別な職員が小走りで彼のもとにやってきて、預かっていた伝言を伝えた。 「昨日、ブラックウェルさんからお電話がありました。息子さんに話があると」 「話?」 「詳しくは聞かなかったんですけれど……」 「わかりました。ありがとうございます」 アーチはしぶしぶ引き返して、施設の一階の奥にある電話スペースに向かった。公衆電話が二台並んでいて、その一つの前で財布の中の硬貨を確かめた。そんなに長話は出来なさそうだ。硬貨を入れて、ブラックウェルの番号にかけると数回の呼び出しで応答があった。 「アーチか?」 「そうですけど、用件は」 ぶっきらぼうにアーチは答える。 「悪いな、忙しいのに。オスカーから電話があって、レズリーが結婚すると聞いた」 「あいつ、電話出来るんですね」 そもそも、あの父親が壁の外にいる人間に電話をかけているという事実に少し驚いていた。ブラックウェルが彼を心配して電話をしたのかもしれないが、いずれにしてもアーチたちは一度もそんなことをしたことがなかった。 「祝いの言葉でも妹に伝えておけばいいんですか?」 「それもあるが、アーチ、結婚式はいつなんだ」 「……それ知ってどうなるんですか」 アーチは早く重たい受話器を置きたかった。そもそも、なんで俺にそんなことを聞くんだ。あいつに直接聞けばよかったものを。 「アンジェリカのことだ」 「は?」 告げられた名前を一瞬誰のことか、理解が出来なかった。ブラックウェルはもう一度その名前を言う。 「だから、それがレズリーの結婚と何が関係あるんですか?」 苛立ちを滲ませながらアーチは尋ねる。 「式に、行きたいと言っていたんだ。もし出来ればだが。一日、どうにか時間を作って」 いまさら、なんだよ。最初の言葉を放ちかけたところで、アーチは苛立ちを抑えるために大きくため息をついた。ブラックウェルの方も、アーチがどんな顔をしているのか想像がついたのか、どこか諭すような口調だった。 「急で苛立つのはわかる。……ただ、もう長くないかもしれないんだ。だからせめてと」 「長く、ない?」 唐突に突きつけられた言葉に、想像以上にアーチは落ち着いていた。硬貨をもう一枚投入する。 「どういうことですか?」 「オスカーから何も聞いてないのか?」 「聞けると思いますか? まともに話もできないのに」 「詳しい事情は、そのうち話す。それで、どうだ? 時間と場所をせめて教えてくれないか。そうしたら、あとはこちらでどうにかする」 アーチは口を開きかけたまま、黙っていた。これはレズリーの結婚式だ。決めるのは彼女自身でなければならないはずだ。もし、来たとしたら喜ぶだろうか? きっと落胆は見せないはずだ。でも、内心はそうではないかもしれない。悲しませるかもしれない。そうしたら、せっかくの日が台無しになる。 それに、今聞いたことを伝えることだって。 「状況は後から伝えておきます。でも、明日は来ないでください」 「アーチ」 「もう俺たちに母親はいないんです。父親も」 だらりと落ちた手は受話器を元の場所に戻した。電話の上に置いておいた硬貨を財布に戻し、早足で出入り口に向かう。もしかしたら施設にまた電話がかかってきて、彼を説得しにかかってくるかもしれないと、逃げるように。受付にいた先程の職員に軽く頭を下げて、施設の門から離れるとようやく大きく息をつくことができた。レズリーに何と伝えよう。バスに揺られながら、ずっとそのことを考えていたものの、アパートに戻っても考えはまとまっていなかった。しかし、部屋には人の気配があった。 「レズリー?」 声をかけると、ややあってから「おかえり」と奥の部屋から笑みを見せる妹の姿があった。 「もう出かけるんだっけ」 「うん。着替えのために寄ったの」 「これ、ミアから預かってたんだ。明日の予定だって。一応、見ておいて」 ありがとう、とレズリーはメモを受け取ってすぐに目を通した。アーチは開きかけた口を閉じる。先程のブラックウェルからの電話を伝えようと思って、やめた。 「親父に、会いに行った?」 なるべく穏やかな口調で彼が尋ねると、レズリーは目を上げてから「えぇ」と答えた。 「一応、ね。でも、大した話は出来なかった。だからすぐに帰っちゃって……言うの忘れてた」 「あぁいいんだ、別に。あいつがそう言ってたから、そうなのかなって思っただけで」 弁明というよりは、本当に落胆しているような妹の言葉に、アーチはどこかほっとした。職員が言っていた通りだ。あいつが、今更そんなことで祝いの言葉の一つでも言ったのなら、余計に苛立っていたかもしれない。レズリーはメモを二つに畳んだ。 「そろそろ出かけるね」 「うん。独身最後の日、楽しんで来なよ」 レズリーはくすくすと笑って頷いた。それからふと思い出したかのように両手を合わせた。 「ねぇ、兄さんの絵を一枚持っていきたいの」 「パーティーに? なんで?」 素っ頓狂な声を上げた彼に、レズリーは首を横に振る。 「違うって。ローリーとの家に。だめかな?」 アーチは頭を掻いた。今日はよくそのことを言われる。 「そう言ってもらえるのは嬉しいけどさ、もう絵は捨てたよ。年末の大掃除のときに、レズリーも見てただろ」 「捨ててないよ」 「えっ?」 はっきりと言い返す彼女に、アーチは眉を寄せた。 「捨ててないの、本当は。私の部屋に、何枚かあるの」 レズリーは視線を床の方に落とした。呆然と見つめてくる兄の視線と合わせないように。叱られることをわかっている子供が、その瞬間を遅らせようとしているように、レズリーは落とした視線をちらりと上げた。 「じゃあ、許可なんていちいち取らなくていいだろ」 ため息まじりにアーチは答えた。レズリーはぱっと顔を輝かせて、ありがとう、と兄の首元に腕を絡めた。その抱擁に軽く背を叩いてやり、「出かける準備はいいのか?」と冗談っぽく尋ねた。 「私がいない夜ですけれど、どう過ごされるご予定で?」 両肩に手を置いたままレズリーが何気なく聞いた。 「適当に。寝坊だけしないようにさ。多分、バートの奴がくると思うけど」 「じゃ、そっちも楽しんで」 「はいはい。はしゃぎすぎて転ぶなよ」 わかってるよ、と笑いながらレズリーは荷物をまとめに、再び自室に戻った。アーチがリビングで古い映画のパンフレットを眺めていると、大きなバッグに荷物を詰めた彼女が慌ただしげに横切っていく。 「大丈夫? 送って行こうか?」 「途中で迎えに来てもらうから、大丈夫!」 玄関の前ではたとレズリーは立ち止まってアーチの方を向いた。どうした、と尋ねると彼女はなんでもないと笑みを浮かべ、 「また明日!」 そう言って部屋を後にした。 ばたんと扉が閉まる。途端に部屋全体が静まり返った気がした。パンフレットのページをめくっていたアーチは、閉じてテーブルの上に置いた。そういえば、どの絵を持っていくつもりなのか、聞きそびれたと思っていた。けれど、ローリーの部屋に移るのはまだ先のことだし、引っ越しも手伝うようになっていたから、その時でいいかと疑問はすぐに振り払う。それよりも、母のことを伝えそびれた。 レズリーは母のことをどれだけ覚えているのだろうか。それに、どう記憶しているのだろうか。まだレズリーは六歳だった。母が出て行った理由もよくわかっていないはずだ。それは自分もそうだったか、とソファに深くもたれかかってアーチは大きく息を吐く。ガーデンで生まれて、何不自由なく生きてきた母が、何の気まぐれかウォード出身の父と出会って、自分たちが生まれて、そして出て行った。 ある日目を覚ましたら母の姿はなく、当時まだ家にいた父に、妹とともに母はどこかと尋ねた朝。父はリビングのソファで項垂れていた。まだ素面だったがすでに目の下には濃い隈があって、二人の頭を交互に撫でた。 「母さんは、出かけたんだ」 「どこに?」 「もう帰ってこない。学校、行ってこい」 今思い返してみても、噛み合わない会話だ。けれども深く聞くことができなかった。あまりにも落ち込んでいる父を責めているようで、哀れに思ったからだろうか。それから学校から帰っても母はいなかったし、次の朝を迎えても姿はなく、いつの間にか母のいない生活に慣れていった。後になって現れたブラックウェルの話によれば、母はガーデン、つまりは壁の外にいることを知った。 結局、壁の中の生活は窮屈だったのだろう。若いときは父に才能があると思って惚れ込んでいたのかもしれない。だがそれが幻想だということを理解したのだろう。随分と時間がかかったようだ。 アーチは背もたれに預けていた頭を起こす。眠りに入りかけていたが、ドアを激しく叩く音がした。 相手は誰だかわかりきっている。気だるく体を起こしてドアを開けると、バートが立っていた。 「妹もう出かけた?」 「とっくに。なんか用事?」 「どうせ暇してんだろ。飯行こうぜ」 「わかった。毎回思うんだけど、お前もうちょっとドア軽く叩くようにしろよ」 「いちいちこまけえな、もう小姑か?」 「変な使い方するなよ」 呆れながら必要最低限の荷物だけを持って、アーチは部屋を出た。
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短編集 両手いっぱいのマクガフィン
¥700
SOLD OUT
サークル:ささやかさんくみ 作家:ささやか 「マクガフィン (英: MacGuffin, McGuffin) とは、小説や映画などのフィクション作品におけるプロット・デバイスの一つであり、登場人物への動機付けや話を進めるために用いられる作劇上の概念のこと。作中人物にとって重要でありドラマもそれをキーアイテムとして進行するが、物語の成立を目的とするならそれ自体が何であるかは重要ではなく代替可能ですらあるものを指す」(Wikipediaからの引用) ささやかさんくみ第5弾となる短編集は、マジックリアリズムとマグガフィンをたっぷり含んだ短編集(リアルもあるよ)。 1 マグロ大王殺し なんとなく日常から足を踏み外してしまった「俺」はスペリング星人のおじさんと殺意お嬢様の勢いに流され、二人と諸悪の根源たるマグロ大王を殺害することにより、人生の一発逆転を試みる。 2 ポテトチップス 仕事に疲れてドラッグストアに寄ると、ついポテトチップスを買ってしまう。もう、何もしたくない。 3 月山記 家族と別れた孤独な中年おやじ・月山好晃(51歳)がVtuberにどはまりして、人生を取り戻す掌編。 4 おはようペペロンチーノ 奇跡。偏頭痛。おはようペペロンチーノ。出会い。哲学者。歴史学者。統計学者。閉鎖病棟。天使。研究。腕相撲。都市伝説。カルト。従弟。自動車。暴力。爆裂暗殺拳。取材。おぽぽ様。結婚。 人生、何が起きるかわからない、ってそういうこと。 5 大晦日、ハネムーン前 ハネムーン前の大晦日における小規模なてんやわんや。 6 ツナ缶工場を襲撃する 失業中の男のもとに、病を患う妹のため金策するアルマンコブハサミムシが強盗にやってきた。アルマンコブハサミムシを哀れに思った男は協力を申し出て、ツナ缶工場の襲撃を計画するが……。 ジェットコースターのようなとんとん拍子の末に訪れる人生の出会いと別れを描いた短編。 試し読みはこちら。 https://kakuyomu.jp/works/16816927861720345678 7 今日はとっても完璧な日 あるいは強盗日和。 あふれるばかりのマクガフィンと無意味と構造的強制を振り切って、己の意思を掴みとれ。 混沌とした世界を突っ走るような狂騒的直線。 人生なんてだいたいが無意味で無価値で退屈だ。 だからこそ、あなたの一瞬があなたにとってこの上なく輝くときが訪れますように。
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耳原
¥700
SOLD OUT
サークル:ささやかさんくみ 作家:ささやか 実に馬鹿げたことだ。いや本当に馬鹿馬鹿しい話で、大抵の人間は一笑に付すだろうし、最早ごく一部にしか知られていないことだが、かつては人を殺してはいけなかったのだ。 そんな聞き齧った話を同級生の耳原さんにすると、彼女は桁々けたけたとけたたましく笑った。 「面白い冗句だね。耳原は冗談が上手だね」 「本当なんだってば」 「嘘でしょう。なんで人を殺してはいけないの。意味がわからない」 「詳しくは聞かなかったけど、なんか命は大切とか社会秩序の維持だとかなんとか」 「アハハハハ、そうかァ命は大切かァ」 耳原さんは桁々とけたたましく笑った。とても五月蝿かった。通勤通学途中でこれからの人生を憂いているであろう周りの人々は彼女の笑声が気に障らないのだろうかと思い視線を巡らせてみる。大抵が二人組で、そのうちの一人が同じように桁々とけたたましく笑っていた。なんということだ。とても五月蝿い。思わず顔を顰しかめると、右隣にいた二人組の笑っていない方と目が合った。彼女も同じように顔を顰めていた。私は頷いた。彼女も頷いた。 「アハハハハ、他人なんて人間じゃないのに大切なんて、本当に面白い冗だゴきゅベ」 私はスクールバックに入れていた簡易殺人器を取り出し、とりあえず耳原さんを殺した。彼女はピクピクンと痙攣して死んだ。殺したら死ぬ。当たり前のことだ。 右隣の彼女も簡易殺人器で片割れを殺していたので、私は彼女に話しかけてみる。 「私は耳原耳原。よろしくね」 「よろしく。私は耳原耳原」 「私は耳原耳原。よろしくね」 「よろしく。私は耳原耳原」 「私は耳原耳原。よろしくね」 「よろしく。私は耳原耳原」 「私は耳原耳原。よろしくね」 「よろしく。私は耳原耳原」 私達はとても気が合ったので直ぐに仲良くなった。 「耳原さんは働いているの」 「そう、私は働いているの」 「どこで働いているの」 「耳原工場で働いているの。あなたはどこで働いているの」 「私も耳原工場で働いているの」 「私も耳原工場で働いているの」 私達は同じ工場で働いていることがわかったので、そのまま一緒に通勤し、一緒にタイムカードを打刻し、更衣室で作業服に着替え、同じ生産ラインで仕事をした。 当然のことだが耳原工場では耳原を製造している。耳原を製造するには混じりない耳原が必要だ。原材料として納入される耳原には不純物が混じっているで、工員はそれらを丁寧に取り除いて純粋な耳原にしていく。滅多にないが稀に全く耳原でないものがあることがあるので、そういうときは耳原工場長に報告する。 今日の耳原は質の悪いものが多く、不純物を取り除くことに大変な労を要した。最悪だったのは愚図愚図になっていた耳原だった。腐臭が鼻に突き刺さる上、衣服や蛆などの不純物が耳原と混ざり合っていて、これを純粋な耳原にするのは殆ど不可能であると断じても過言ではなかった。結局耳原工場長に具申してこの耳原は廃棄することになったのだが、それにしたって酷いものだった。 耳原の廃棄を終えて程なくして昼休みになったので、私は耳原さんと一緒に食堂で昼食をとった。今日の日替りは耳原だった。私は耳原が好きなのでラッキィだと思ったが、耳原さんは耳原が余り好きではないようで渋い顔をしていた。私が気分良く耳原を食べているのに、そういう顔をするのは気遣いが出来ていないと思う。私は腹が立った。とても腹が立った。耳原さんがこちらを見た。そして作業服のポケットに手を伸ばそうとした。そこにあるのは工場用殺人器だ。何故それを知っているかと言うと、私の作業服のポケットにも工場用殺人器があるからだ。私は耳原さんよりも速く工場用殺人器取り出し、彼女を殺した。彼女はドゥルンドゥルンと振動して死んだ。殺したら死ぬ。当たり前のことだ。 それを偶々目撃した耳原工場長に食事中に埃を立てるなと御尤もな注意をされた。これは私が悪いと思ったのですみませんと謝罪したが、耳原工場長は誠意が足りないと増々激怒し、火に油を注ぐ結果となった。 「食事中に埃を立てるということは、皆に迷惑をかけることだ。皆に迷惑をかけるということは、お前が悪いということだ。お前が悪いということは、私が正しいということだ。私が正しいということは、お前に何をやっても私は悪くないということだ。私は悪くないということは、私は間違っていないということだ。私は間違っていないということは、私がお前を殺してもいいということだ」 寸毫の隙も無い完璧な理屈だった。私は何も反駁出来なかった。耳原工場長は工場用殺人器で私を殺した。私はドゥルンドゥルンと振動して死んだ。殺したら死ぬ。当たり前のことだ。私は死んだ。 < 続く >
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自家印刷手製本「はじまりのうたとおわりのうた」
¥300
SOLD OUT
サークル:hs* 作家:せらひかり 書き出しと書きおわりのお題を使用した、55題×2=110話の140字小説の再録集。すこしふしぎな掌編小説の世界。 A6サイズ本文58p
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自家印刷手製本「ツカノマアタラクシア」
¥300
SOLD OUT
サークル:hs* 作家:せらひかり 「文体の舵をとれ」のお題で書いた掌編短編集。文体の縛りがある中で、ゆらゆら駆け回る物語。だいたいすこしふしぎ。 A6サイズ本文65p
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春陽
¥500
SOLD OUT
サークル:韶華堂 作家:硯哀爾 表紙イラスト:炭化 春にまつわる二編を収めた短編集。 高校に入学したばかりの男子高校生が人ならざるものを幻視する『寒明の君』、冷戦下の東ドイツに暮らす女性が春をもたらしに来た少年と出会う『冬来たりなば、』を収録。 A6版/86ページ
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質疑応答は浮遊式
¥1,000
SOLD OUT
サークル:韶華堂 作家:硯哀爾 表紙イラスト:瀬都きの 夏の気配が色濃くなりつつある、とある日のこと。平凡な日常を享受する女子大生のもとに、ふわふわ浮遊する自称幽霊の男が現れた。未練なし、祟り実行済み、成仏希望。それなのに現世を揺蕩い続けている彼は、ようやくできた話し相手にポーカーフェイスで大喜び。今日も今日とて、彼はクエスチョンマークを飛ばす。質問に答えたり、答えなかったり、逆に質問してみたり。そんな恐怖とは対極の、少し幽かなひと夏の日常。 A6版/252ページ
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asawo2 world 手描きイラスト
¥1,000
SOLD OUT
サークル:asawo2 world 作家:asawo2 手描きのイラストです。
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asawo2 world 手描きイラスト
¥1,000
SOLD OUT
サークル:asawo2 world 作家:asawo2 手描きのイラストです。