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家族がみんな隠しごとをしている
¥550
文章・創作のサークルで初めて刊行のライトノベル短編集 森野ひよこ 家族がみんな隠しごとをしている マノ・イチカ はじまりの村の防具屋さん 野原 謎なんぞ、なぞ ゆにお 野良猫男子。 望月深景 ノスタルジックに恋をして 小鳥鳥子 甘々なアイスコーヒーが良いに決まっている * 「家族がみんな隠しごとをしている」 もう夕方だっていうのに、ギラギラと熱い日差しが全身に突き刺さるのがわかる。フルートの黒いケースは思いっきり熱を吸収している。大きく息を吐いて気合を入れると、沈みゆく太陽に向かって、毅然として歩を進めた。 やがて家が見えると、越えそうになる我慢の限界を必死で抑えて、玄関へ駆け込む。 「あー、暑い!」 ひんやりとした空気が室内から流れてきて、私は思わず靴も脱がずに廊下に倒れこんだ。 冷たい床の感触が気持ちいい。外の炎天下から一転、至福のひとときだ。起き上がって部屋で着替えるなんてもってのほか。いっそこのまま床になりたい。 「もー、なぎさ! 帰ってきたのに顔出さないと思ったら。何してるのよ、そんなとこで。みっともないわねぇ、誰か来たらどうすんのよ」 見なくてもわかる。母さんが廊下で仁王立ちしている。しかも、年甲斐もなくピンクのうさぎのエプロンをしていると思う。おそらく。でもそんなことを確かめるために顔を上げる労力が惜しい。 「お願い、もうちょっとだけ。今、私、誰よりもこの床を愛してる」 「はいはい。冷たいカルピスあるから、はやくその沸騰した脳みそ冷やしなさい」 呆れた声で言い捨てると、母さんがキッチンに戻っていく。 床が私の熱を吸い取って、ぬるくなってきた。私は大の字に突っ伏したまま、体ひとつ分右にずれる。ひんやりと冷たい感覚が戻ってきて、心地よさに吐息が漏れる。 突然、インターホンが鳴った。 私は飛び起きると、何事もなかったかのように制服を整えてローファーを脱ぐ。 「こんちはー。宅急便ですー」 玄関の扉越しに、威勢のいい声が聞こえる。やはりうさぎのエプロンをしていた母さんは、印鑑を片手にキッチンから小走りで出てきた。私を一瞥すると、しっしっと追いやるそぶりをする。サンダルをひっかけ玄関を開ける母さんと入れ違うように、私はキッチンへ入った。 ダイニングのテーブルには、ペットボトル顔負けの容量のグラスに氷入りのカルピスが入っていた。 さすがわれらが母親。グチグチいいながらも、暑い中部活から帰ってきた愛娘のために、冷たいカルピスを作ってくれている。 私はその母の愛情で、沸騰した脳みそを冷やすべく、のどを鳴らして一気飲みする。冷たいカルピスが、のどから胃へと伝っていくのがわかった。 「んー、最っ高!」 風呂上りにいそいそと缶ビールを開ける父さんの気持ちがわかる。あれは、炎天下のあとの床であり、部活帰りのカルピスなのだ。 「あー、ちょっと、なぎさ! 何で私のカルピス勝手に飲んでるのよ」 発泡スチロールの箱をダイニングテーブルに置きながら、母さんが文句を言う。 「え、これ私に入れてくれたんじゃないの?」 「当たり前じゃない。カルピスぐらい自分で入れなさいよ」 私は口を尖らせながら、クールダウンした脳みそを用いて自己弁護を開始する。 「だって、さっきカルピスあるって言ったじゃん」 「あるわよ。冷蔵庫に。だから勝手に出して作って飲んでよ」 「この真夏日に部活でへとへとになって帰ってきたかわいい愛娘に、カルピスくらい作ってくれてもいいじゃない」 「へとへとでもコップにカルピスと水入れて混ぜるくらいできるでしょ」 「言っとくけど、うちの部はけっこうハードなんだからね。狭い音楽室にぎゅうぎゅうに詰め込まれてみっちり合奏2時間コース。一度代わってみてよ」 「嫌よ。だいたいもう引退なのに、なぎさが勝手に行ってるだけじゃない。あんな壷から蛇が出てきそうな笛の音じゃ、かえって迷惑なんじゃない?」 「失礼! ワタクシ、こうみえてもソロパートありますし!」 「あーもう、はいはい。わかったから着替えておいでよ。じゃないとあんただけヌキにするよ」 突然毒気を抜かれて、私は大きく目を瞬いた。 母さんはさっき届いた発泡スチロールのふたをふさいでいるセロテープをぺりぺりと剥がしている。 「何何? 何が届いたの?」 ふたが開くのも待ちきれず、私は身を乗り出して母さんに問う。 「ふっふっふ。翠さんがお中元にってお肉を送ってくれたのよ。それっ!」 母さんが勢いよくふたを開けると、中から保冷剤に埋もれた鮮やかな霜降りのロース肉が見えた。 「おおー」 思わず二人の声がハモる。 分厚くスライスされた五枚のお肉が、ひとつのトレイに入ってパックされている。それをダイニングテーブルの真ん中に飾り、おおーとか、わあーとか言いながら、しばし二人で愛でた。 ありがとう翠おばさん。大好き。 「付け合せはニンジンでいいかな。あ、ブロッコリーがあった」 「着替えてくるわ」 さっそく冷蔵庫を開けながら悩みだす母さんの背中に声をかけ、私は足取り軽く階段を駆け上がった。急いで楽な服装に着替えて降りてくると、母さんは鼻歌まじりに野菜を下ゆでしていた。 「あ、ねえ、なぎさ。確か冷凍室にラードあったよね」 「ラジャ!」 私は冷蔵庫に駆け寄り、勢いよく扉を開く。すると、扉のポケットに入れていた保冷剤がガラガラと落ちてくる。 うちの冷蔵庫は古くて、冷凍室が一番上の扉で、しかも開けた瞬間ゴーゴー言い出す。必死で冷やしている音を聞いていると、なんだかはやく閉めないと悪い気がする。それでつい目をつぶってしまっているけれど、さすがに今日という今日は我慢できない。 私は保冷剤がクリンヒットした足の甲の痛みにじっと耐えながら、心の中で固く決意する。 「いっつも思うんだけどさ、うち冷凍室詰めすぎだよ。絶対要らないものあるって。少なくともこんなに保冷剤は要らない」 私はそう吐き捨てながら、ポケットに入っている保冷剤を片っ端から取り出して、カップボードに並べる。 「えー、使うことあるじゃん。大きいのと小さいの何個かずつ残しといてよ」 「はいはーい。後で戻しておきます」 不満タラタラな母さんの抗議を、やる気のない声で流す。 アイスクリーム、鮭の切り身、開きアジの干物、豚ばら肉、鶏肉あたりは許す。 「このコップ冷やしてるの誰?」 「あー、父さんでしょ。風呂上りのビール用」 「缶から直接飲んでるじゃん」 「忘れてるんじゃない?」 「はい、ダメー」 私は語尾を下げながら、グラスを流し台へ下ろす。 「次、この化粧水」 サラダ用のキャベツを千切りしていた手を止めて、母さんが訝しげに目を細めて私の持っている瓶を見つめる。 「みかのでしょ、多分」 「う。じゃあ入れときます」 姉さんのものを勝手にいじったら、後が怖い。裏表のないさばさばした人で、脅し文句までが有言実行の徹底ぶりだ。 あったところに向きも元通りに置いておくと、さらに奥へ進むことにする。と思ったら行き止まりだ。巨大な霜の塊がある。 「母さん、この霜なんとかならないの?」 「それねぇ。一度冷蔵庫のスイッチを切ればいいんだけど、こう暑い日が続いてるとやる気になんないよね」 たしかにこの暑い時期に冷蔵庫のスイッチを切ったらいろんなものが傷みそうだ。でもこいつが冷凍室の三分の一くらいを占めている。 私は果物ナイフを取り出して、力任せに掘る。しかし手が届きにくい上に硬すぎで全然削れている気配がない。椅子を冷蔵庫の前まで持ってくると、椅子に登って、冷凍室に頭を突っ込むようにして霜と対峙する。 ふと霜の下のほうに黒っぽいものを見つけた。回りの霜を削って取り出してみると、それは鍵だった。バイクとか車とか家とか、それくらいのサイズ。 「ねぇ、母さん。冷凍室に鍵が入ってるんだけど」 「なっ、はやく返しなさい!」 すぐ私の足元まで駆け寄って、顔面蒼白の母さんは私に手のひらを向けた。私は焦っているような母さんの顔をまじまじと見つめ、鍵を渡した。母さんは半ば奪うようにして鍵を握り締めたが、あれ? とつぶやき手の中の鍵を見つめている──。
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四節の輪舞曲(ロンド)
¥550
著者:森野ひよこ 季節を「四節」とし、5つの散文詩と4つの短編集を収録 ■散文詩「旅立ち」 空気の冷たい午前4時 騒がしいほど静寂な世界で目が覚める 私は、軽く髪を梳き 着替え 顔を洗う 目の前にある左右対称な私の顔 声の出ないその唇が言葉を紡ぐ Are you happy? 私は答えず口の端を上げる 彼女も気づいて笑い返す 鍵を開け 外へ出ると 寝過ごした太陽が慌てて起きだした 私は見つからないように 反対方向にアクセルを踏む どこへ行こうか 今日は家出記念日 ■「桜との約束」 三月六日。 大学の合格祝いとして家族で外食した日、両親から離婚することを告げられた。 父がほとんど家に帰らないことも知っていたし、どうやら他に女性がいることも知っていた。そのため、離婚の話自体は、ああ、やっぱり、とすんなり受け入れた。 そして、自分でも驚くくらい冷静に、私の学費のことを聞くことができた。 「明莉は心配しなくて大丈夫よ。大学の授業料はお父さんが出してくれるから。生活費はお母さんがなんとかするわ」 母は安心させるように私に微笑んだ。おそらくその結論が出るまでは、かなり労力を必要としただろう。母は私に気を使わせまいと、何でもないようにふるまっていたが、表情にはいつも疲労が濃く表れていた。 「それで、明莉。本当は一人暮らしをさせる予定だったのだけど、さすがにそれぞれの場所で生活するのは、ちょっと辛くて……」 なんとかすると言っても、今までスーパーのレジ打ちだったのだ。当然だと思った。 「いいよ。一緒に引っ越そう」 私は明るく言った。私と母は翌日、大学近くのファミリー向けアパートを契約し、四月二日に引っ越すことに決めた。 祖父が危篤のため、実家へ行かなければならなくなったのは、離婚の話から三日と経っていない頃だった。顔を覆ったまま、心底嫌そうに母は告げた。 母は名家の長女だったが、半ば駆け落ちのように父と一緒になったと聞いている。だから、盆正月に帰省することはおろか、一切連絡を取ることが無かった。母の弟にあたる夫婦が実家で暮らしている、ということくらいしか知らなかった。連絡先も知らせていなかったらしい。 だが離婚の手続きの際、他に頼る先が無く代々お世話になっている弁護士に連絡を取ったため、そこから祖父の危篤を聞いたそうだ。祖父からはどうしても一目会いたいと常々依頼されており、いつ何があってもおかしくない状況の今、話ができるうちにどうしても会ってほしいとのことだった。 離婚の財産分与の相談をしていることもあり、強く突っぱねることができず、母と私は実家へ向かうことになった。 実家につく前から、申し訳なさそうに何度も母が謝る理由は、実家についた瞬間理解できた。叔父・叔母の敵意のこもった視線を受け、私たちは小さくなりながら挨拶をして敷居をまたいだ。 着いて早々、私たちはベッドで眠る祖父の顔を見た。顔には多くの皺が刻まれており、深い皺と見紛う小さな目は閉じられていた。酸素吸入器を動かす機械音が聞こえるくらい、安らかに眠っている。主治医の大田先生の話では、もう内臓の動きが悪く、時間の問題らしい。数時間ごとに目を覚ますとのことだったので、無理やり起こすのではなく、自然と目が覚めるのを待つことになった。 叔母がお茶を入れて、母と私の前に無造作に置く。母は、ありがとうございます、と丁寧に頭を下げた。私もそれに習い深々と頭を下げる。 「保代さん、明莉はこの家にはじめて来るの。良かったらお庭を見せてあげても良いかしら」 「あら、せっかくお茶を用意したのだから、せめて美里さんは召し上がって。ひさしぶりにお会いしますし、積もる話もありますし。明莉ちゃんはいってらっしゃい」 叔母は作り笑いをしたまま、私たちの顔を見比べる。叔父は足と腕を組んだ姿勢のまま、顎を横へ降った。勝手に行け、ということだろう。母が私に小さくうなずく。私は、逃げるようにその場を去った。 立花家の庭は広かった。冬でも緑色をした木々、石灯籠、大きな池の中央には島があり、そこへ続く橋が架けられている。島には一部屋分くらいの簡易な建物があった。壁が無く、柱と屋根と床がある。能舞台というよりは、お茶を飲みながら周囲の景色を鑑賞するのだろう。その建物の向こう側にも橋が架かっていた。 私は橋を渡りながら、体を震わせた。三月とはいえ、まだ肌寒い。コートを着ているものの、水辺から冷気が上がってくる。 島から向こう岸へ渡ると、そこには大きな樹が枝を広げていた。樹齢何百年と言われても素直に信じられる。柳だろうか。枝先は立花家の塀を軽々と超えて、外の大通りまで伸びている。 葉のない枝にそっと顔を近づけると、赤いつぼみがあった。ああ、しだれ桜だ。 そこまで考えて、桜の幹に手を添えている人影に気づく。同級生くらいだろうか。ワンピースにボレロ、蝶々結びの赤いリボン。お嬢様高校の制服といったいでたちだ。私に気づかないのか、ずっと彼女は樹のそばを動かない。肩まで伸ばした真っ黒な彼女の髪が、冷たい風に揺れる。私は思わず、コートを握りしめた。 「ねえ、寒くないの?」 彼女は驚いたように、振り返る。無遠慮に顔を近づけ、私を上から下まで眺めると、彼女は口を開いた。鈴のような、美しい声だった。 「へぇ、あなた、私が見えるのね」 彼女は興味深そうに私の顔を覗き込む。彼女の瞳が、光の加減で深緑色に見える。
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ヒキトリノキュウ
¥550
作品 ヒキトリノキュウ 他面綺譚 * 「ヒキトリノキュウ」 著者:黛 沙夜子 都内某所、とあるカフェにて。 隣席の女子大生風の会話。 便宜上、A子B子の二人とする。 「そういえば、来月引っ越しするから荷物の整理してたんだけどさ」 「うん」 「そしたら変なものが出てきたんだよね」 「どういうこと」 A子はテーブルに置いたスマホを手に取った。 「これ」 「えーなにこれ」 彼女たちの席まで少し距離があるため、画面の中は鮮明には見えないが、何か黒っぽいものが写っているようだ。 「これどれくらいの大きさなの」 「これくらい」 A子は両手の指を合わせて○を作った。 「ふつうにボールじゃないの」 「写真じゃわかりづらいけど、切れ目みたいなのがたくさんあるんだよね。それに中に何か入ってるみたいな音がする」 「じゃあケース」 「なのかなあ。全然見覚えないんだけど」 「えーなんか気味悪いね」 数日後、同所。 「例のやつ、持ってきたよ」 「見せて見せて」 A子は、学生がよく持っているような大きな手提げ鞄から、球体を取り出した。遠目には切れ目が入っているようには見えない。B子は、漆塗りのような黒い艶のある球体を持ち上げてじろじろ眺めている。 「これってもしかしてさあ……」 B子は、直径十センチほどの球をA子に返しながら言った。 「おばあちゃんが言ってたやつかも」 「え、なに」 「カイメイさま」 「かいめい…?どんな字?」 「さあ、昔聞いたことあるけど忘れちゃった。なんか」 呪いがどうとかって言ってた気がするけど。 そう言いながら、B子はにやりと笑った。 「えーやめてよー気持ち悪い。私恨まれるようなことなんてしてないよ」 「そう?A子の元彼の○○くんさ……」 彼女たちはそれから球体のことなど忘れたように、恋愛話に花を咲かせていた。私は、手元の本に視線を落としながらも、頭は活字を追うことなく五年前の出来事を思い出していた。 ● 「ねえ、これってケンイチの?」 彼女の部屋のソファに寝転がってインテリア雑誌をぺらぺら捲っていると、後ろから声をかけられた。振り返ると、ユキの手に見たことのない黒い玉が握られている。 「さあ。ガチャガチャの景品でも入ってたんじゃないの。捨てれば」 「でもさあ、これ中から変な音がするんだよね」 はい、と玉を渡される。私は起き上がって雑誌を閉じた。 手に持ったときにまず、思ったより軽いなと感じた。それから無機質な見た目のわりに暖かかった。いや、暖かさというよりぬるさ、温泉のあつ湯からぬる湯に移ったときのあのなんともいえない「冷たい」と「暖かい」の絶妙に入り交じったような感覚だ。 「どこにあったの」 洗面台の下だよ。彼女はそう言って玉を奪い取ると、私の右耳に当てた。 「ね」 「ね、といわれても……なんにも聞こえないよ」 「嘘でしょ?」 今度は自分の耳元へ持っていく。 「……やっぱり聞こえるじゃん……音って言うか、間延びした声……そう、お経みたいな」 ユキはそう言った途端、さっと顔を青くして玉を落とした。玉は絨毯の上に音もなく着地した。跳ねることも転がることもせず、衝撃をすっと吸収するように「着地した」のだ。私は本能的に覚えた違和感を押さえ込むように言った。 「なんだよそれ、気持ち悪いな。疲れてるんじゃないの」 翌日、気味が悪いから預かって欲しいと頼まれ、私は奇妙な黒い玉を自宅へ持ち帰った。 その夜、何かの走り回るような音で目が覚めた。それは明らかに人間サイズのものではなく、小動物らしい微かな足音だった。時折ハアハアという荒い息づかいが聞こえる。ホラー映画好きの私は、こんなときには知らないふりを決め込んでじっとしているのが一番だという、確信に近い直感を抱いていた。万が一起きて調べになど行こうものなら、もっと恐ろしい目に遭うに決まっている。仮に私が映画の主人公なら、鑑賞している人間にとっては画にならずつまらないかもしれないが、現実世界では、地味でも構わないから安全を優先すべきだ。私は固く目を瞑り、童話に出てくる愉快な小人を無理矢理に想像しながら、再び眠りに落ちた。 翌朝、スマートフォンの鳴る音で目が覚めた。アラームかと思い止めようとしたら、ユキからの着信だった。 「どういうこと!」 「昨日持って行ってっていったじゃない!」 寝ぼけながら昨夜の出来事をうっすら思い出し「ああ、あのあと帰ったんだな」などとぼんやり思ったが、怒られるので口にしなかった。 「ひょっとして黒い玉のことかな」 「そうだよ!どういうつもり」 「ああ、ごめん、鞄に入れたつもりだったんだけど、忘れてしまったのかも。ところでさ、前から言おうと思ってたんだけど、そろそろ一緒に住まない?」 えっ。 決まりが悪くなると話を全然別な方向へ向けるのは、私が日頃からよく使う手法だ。大抵は「誤魔化さないでよ!」と余計に怒られる結末を迎えるのだが、今回ばかりはうまくいったようだ。彼女の怒りは、一瞬にして鎮まっていた。ユキとの同棲を考えていなかったわけではないが、正直に言うと、具体的に計画していたわけでもない。ただなんとなく、まだ早いかな、などと思っていた。しかし、帰省本能の強い玉のせいで、これから毎朝彼女の怒りに満ちた声で起こされるなんてたまったものではない。 電話を切ると早速、家移りの準備を始めた。とはいえ男の一人暮らしなど、たいした荷物もない。持っている全ての衣類と、愛用の洗面具の数々を詰め込んでみたが、それでも旅行鞄一つで十分足りてしまった。迷ったが、荷物は会社に持っていくことにした。位置関係の都合上、一旦家に帰ると遠回りになってしまうのだ。 「旅行でも行くんですか」 エレベーターで一緒になった後輩に声をかけられる。まさか、同棲を始めるんだよなどとは言えないので、適当に頷いておいた。その日はなんとなくそわそわして、仕事に集中できずにいた。これから始まる彼女との生活に期待しているせいかと考えてみたが、実際は謎の玉のことが頭から離れなかった。少なくとも自分で思っていたよりは、好奇心が旺盛な人間なのかもしれない。時計と睨み合いながら長い一日を過ごし、珍しく定時ぴったりに会社を出て、その足でユキの部屋に転がり込んだ。私の顔を見ると、彼女は黙ってローテーブルの上に置かれた玉を指差した。 「ああ、ごめん。処分した方がいいかな」 ユキは怖い顔をして頷いた。とりあえず彼女の目に触れなければ問題なさそうなので、捨てるふりをして部屋の隅に隠しておくことにした。 しばらくは何事もなく日々が過ぎ去った。ところが、気付かぬ内にユキの身体に異変が起き初めていたのだ。まず、それまでオールAで切り抜けていた会社の健診に引っかかった。そればかりか、どうせ大事には至らないだろうと高を括って受けた精密検査で医者に余命を宣告されてしまったらしい。ショックを受けた彼女は「きっとあの不吉な玉のせいよ!」と、泣きわめきながら訴えた。表向きは捨てたことになっているので、今も自分の近くに玉が存在していることは知らないはずなのに、女の勘というものはいつも鋭い。彼女の一大事であるこの頃、私はといえば、妙に落ち着き払っていた。何故かはわからないが、ユキが死ぬことなんて絶対にないだろうと、確信めいた予感を持っていたのだ。ひょっとしたら、残酷すぎる未来を受け容れたくなかっただけなのかもしれない。このまま黙って年月が過ぎ去るのを見送るわけにはいかないと思ってはいたが、医学知識を全く持ち合わせていない私に病気を治すことは不可能だ。結局自分にできるのは、あの疑わしい黒い玉に対して調べてみることだけだった。 手始めに、数日かけていくつか実験をし、玉について次の事が分かった。 ・昼間別の場所へ持ち出すことは可能 ・どこへ捨てても翌朝には彼女の元へ戻る ・彼女が別の場所に泊まると朝までにそこへ移動する ・彼女にしか声は聞こえない ・多少の衝撃では壊れない
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裂けよ、らうたし明朗の
¥600
SOLD OUT
■「裂けよ、らうたし明朗の」 小説(短編):白石ポピー 読み始めてすぐに、地元の喫茶店を思い出した。 寂れた商店街の裏側にある細い路地。 立ち並ぶスナックや立ち飲み屋の建物はどれも煤けていて、営業しているのか潰れているのか判別が付かない。日に焼けて色の飛んだポスターやメニュー表が貼られた看板の脇にある錆びた階段を上った先に、その喫茶店はあった。店内は意外にも広々としていて、カウンター席の左右に大小様々のテーブル席が並んでいる。一番端には一つだけ洞のような形になっている席があって、私はいつもその席で本を読んでいた。 平日の午後、店内に客は私しかいない。 背の低い初老のマスターはカウンターの中で新聞を読むか居眠りをしている。天井近くに取り付けられた箱型のテレビは決まって外国の古い映画を無音で流していた。晴れた日は窓から入る日光に頼って照明は点けない主義らしく、結果店内はいつも薄暗かった。あの店に行くときはいつも、晴れた平日の午後だったような気がする。居心地の悪い現実世界から自らを隔離するような心持で、私はあの店に通っていた。薄暗い店内の一番隅の洞に隠れるようにして文庫本の表紙を開き、非日常の世界に飛び込む。 「裂けよ、らうたし明朗の」 本作を読んでいる間、私はずっとあの店の洞の中にいた。 今からこの作品を読もうとしているあなたもきっと、あなたにとっての洞を思い出すだろう。この作品群は、誰にも邪魔されずに文章に没頭できる素敵な洞へあなたを連れて行ってくれる。奇妙で美しく滑稽で残酷な作品世界を、あなただけの洞でじっくり堪能して頂きたい。 文・小野木のあ 作品 「イカ墨スパゲティを啜る女」/「啓蟄よ来るな頭から涌く」/「春霖を祈る」/短歌群Ⅰ/「明朗の胎動」/「胸キュン心不全」/「健全なるパン、健全なるサーカス」/自由律俳句群/「純喫茶 盗掘」/「明朗の黒」/「シロイルカ」/短歌群Ⅱ/「渇いた代わりに噛みちぎる」/自由律俳句群Ⅱ/「解剖台の傘」/短歌群Ⅲ/「秋と馬鹿」/「イワシ」/「フェニルエチルアミンの旗手」/自由律俳句群Ⅲ/「ギロチン係の遅刻で少し伸びた時間で」
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星空に窒息
¥580
SOLD OUT
■「星空に窒息」 小説(短編):小野木のあ ・星空に窒息 ・風船の頃 ・暗闇偏愛日記 ・自販機蹴とばして夏 ・旅客機が腹見せ飛んで行く 短歌:小野木のあ 自由律俳句:小野木のあ 表紙イラスト:小野木のあ * 「自販機蹴とばして夏」 なにもかも、最低だった。 夢を抱いて上京してから4度目の春、私は実家に出戻った。 22歳。夢も希望も仕事もない。やりたいことなど何もない。息をするのも面倒くさい。時間が過ぎていくのをじっと待つだけの毎日だった。実家に戻ってから一ヶ月の間、私はほとんど自分の部屋から出ず、眠ってばかりいた。 その日は昼過ぎに一度目を覚まし、布団から出てコタツに移動した。家族は仕事や学校に出かけていて、家には私と猫だけだった。私に気付いて近寄ってきた猫を抱きかかえて、そのままコタツに潜り込んだ。猫を撫でている時だけは、気持ちが和らいだ。 そのままコタツの中でうとうとしていると、チャイムの音で目が覚めた。一度は無視したけれど二度目のチャイムで起き上がり、寝間着のまま玄関の戸を開けたがそこにはもう誰もいなかった。起こされた猫はコタツから走り去って行った。まだ眠かったけれど、もう一度コタツに戻る気持ちにはなれなくて、仕方なく着替えて外に出た。 実家は山を削って作られた高台の分譲地にあった。その住宅地を抜けて、畑道をなんとなく舗装しました、といった感じの細い坂道を登っていく。畑の真ん中にある道の途中には、ぽつりぽつりと民家が並んでいる。黙々と歩いていると、右手にある古い一軒家の玄関口に立っている女の子と目が合った。女の子は私に向かって「こんにちは」と叫び、満面の笑みで手を振った。仕方なく私も「こんにちは」と口を動かし笑顔を作った。両頬の筋肉が引き攣る不快な感触がした。私は女の子の視線から逃げるようにして歩くスピードを上げた。 久しぶりに歩く外は、ずいぶん暖かくなっていた。私が眠っている間に春は終わってしまったようだった。風にはまだ冷たさが残っているけれど、青天の日差しは初夏のそれだった。